第三十五章 「卓上の夏」 2019・8

 

 

 

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                                                                                                  「卓上の夏」 10号F

 

 

 

 

 



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ほうずき市が過ぎ 七月も終わろうとする頃 ようやく梅雨が明けた。駅までの道すがら 夏の花が賑やかに咲く。色とりどりの立葵がトウモロコシ畑の横に所狭しと植えられて陽を浴びる。勢いを増した畑の作物と 無造作にゴテゴテと植えられた花々。それは綺麗な花というよりは生命そのものであって見る者の眼ではなく 心の奥深くに訴えかける力を持っている。ここへ来たばかりの頃 私はまだ都会人でその田舎臭く野暮ったい色合いに驚いた。しかし 今はそんな自分の浅はかな愚かさをはっきりと認識できるようになった。都会の花屋の洗練された花が蒼褪めて見える。

夏の夕刻はゆったりと流れる。ユッカ蘭とキンセンカを手に 黒いリボンの麦藁帽の農夫が曲がった腰でゆっくりと畑から帰る姿にわたしの眼は釘付けになる。

厳然とした実のある寡黙な横顔 永い年月を自然を相手に 泥だらけになって生きてきた男の重みが私を打つ。ぺらぺら喋る都会の男が途端に色褪せる。

ここへ来て9年目になった。私は既に都会の人では無くなった。「アート」などと云う都会のいい加減な言葉を聞くと心から嫌気がさす。前本はアートとは 人をアット言わせるだけのものだと言う。ああ くだらない くだらないにも程がある。

 

「新しいアート」などとなると最低ではないか。真に優れたものを目指すことなく 新しいことばかりを追う今の美術は 私にとっては史上最低である。新しいと言っても 結局は目新しいだけである。際物。新しいことと目新しいことの違いをきちんと認識しなくてはならない。真の新しさは常に自分の中にあって 前進する自分の事である。人に見せる為のものではない。人をアッと言わせたり 思いつく限りの目新しいものを描いたり 作ったりしたところで全く意味を無さないとは思わないか。結局は目に見える範囲のものでしかない。芸術は目に見えない精神の深さを具現化するものである。芸術は真理を探究するものである。

 

前本は「この絵は何を描こうとしたのか」と聞かれることを常々嫌がっている。テレビの美術番組も 作品にどんなことが描いてあるのかばかりを話題にする。絵を見るときは何が描かれているのかではなく どう描いてあるかを観なくてはならない。

 

どの様な作品が優れているのか。それを見分けるのは簡単な事だ。一生見続けても飽きない作品が優れた作品なのだ。飽きるばかりか 見れば見るほどその良さは増し 日々新たに心深く迫ってくる。絵だけではない どの様なものでも優れたものというのは どれ程永く傍にあっても飽きることなく その良さは増すばかりであり 愛着が深まるものである。

アートなどは一度見れば十分である。ましてやそれを自分の傍に置こうなどとはゆめゆめ思わぬ。一度見れば飽き飽きするものを そうやすやすと持ち上げるなと言いたい。

そして良い絵とは 実に淡々としてつまらぬ工夫の跡など微塵もないものである。これ見よがしな表現や技巧 てらいのない作品は平明である。一見何の工夫もなく さらっと簡単に描いたように見えるものだ。その表面だけを見て こんな絵なら自分でも描けると とんでもないことを思ってしまうような作品が 実は超優秀な作品である。簡単に描いたように見える名作は 何年もかけて写生し続けたモチーフから 数知れぬ小下図を作って推敲した挙句ようやく本画に取り掛かり 薄い絵の具を幾重にもかけて制作される。途方もない歳月と画家の崇高な精神性 深い洞察と真理に迫る力のこもった作品は表面だけしか見えない者には理解出来ない。何が描かれているかなどというような安いストーリーでは決してない。美そのものであって それはこころの極めて奥深くに迫ってくる。 

画家は常にそこを目指してはいるのだが誰も 到達することはできない。

あの土牛をして「どこまで大きく未完で終われるか」と言わしめる所以である。

御舟は「靫彦の絵を弱いというものは心が荒れている」と言った。大半の現代人は心が荒れている。ではどうしたらよいか。先ずはインスタ映えだのいいね!だのといった幼稚なことを大人はやめるべきである。他にもっとしなくてはならないことがあるはずだ。

 

  

 

 

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さて この夏前本は近くの蓮池へ通って蓮の花を描いた。 

この土地は縄文時代からあまり変わっていないのかも知れない。縄文時代の土器などが多く出土するこの辺りは 日照時間が長く災害も少ない上黒曜石が採れる。冬は寒いが狩りに必要な矢尻にする石があることは何よりだったに違いない。

長野と山梨の県境 信濃境に井戸尻考古館がある。中央線の信濃境駅は小淵沢からたった4分で 駅から考古館までは歩いて15分である。家から車で行っても20分ほどだからとても近い。ここに素朴な蓮池があって 前本は何度かスケッチに通った。考古館は土器などを並べただけの 黴臭いような古色蒼然としたところで訪れる人は殆どいない。蓮池も可愛いカエルが沢山いる田圃のような池で こちらも誰もいないことが殆どで前本がスケッチをするには格好の場所である。 

山梨側から長野に向かい 甲州街道に出る少し手前を右折すると 名もない山々が延々と続く。人も車もいない畑の中の一本道は今だに縄文時代なのだ。音の無い真夏の中を車で走るのはなんと開放的な事だろう。

 

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考古館の入口には看板も案内図もない。手前の斜面を少し下るといくつかの蓮池がある。右下に見えるのが蓮池だ

 

 

 

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お盆前に咲いた蓮の花を描き終えて 前本はへとへとに疲れて帰って来る。でも又明日も行くと云う。炎天下で数時間写生が出来るのは今のうちかもしれない。

 

 

 

 

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前本が蓮を描きに行っている間 私は庭で愉しい時を過ごす。真夏の庭は最高だ。 

男郎花が咲くと アサギマダラが食事に来る。気流に乗ってゆったりと飛んでくるこの蝶は美しく おっとりとした食事の様子は特に微笑ましい。長い時は半日以上同じ花に止まっている。どんなに近づいても飛び立つことは無い。夏を一緒に過ごせるのはとても嬉しい。意地悪な豹柄のヒョウモンチョウに追いやられるは気の毒だ。品の無い大嫌いなヒョウモンチョウ

 

 

 

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朝霧の中で白百合が咲いて私の夏はもうすぐ終わろうとしている。短い夏。お盆が過ぎれば蝉が鳴かなくなり 朝夕の風は秋の始まりを告げる。

 

 

 

 

 

                ⚘   ⚘ ⚘

 

               

第三十四章 「あじさい公園から」2019・7

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                                                                   あじさい公園から」 15号F 

 

 

 

 

 

 

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ことしは6月7日に梅雨入りした。このひと月ほどの間 晴れた日は数日で 霧は昼夜を問わず森を覆い 墨絵の中に居るようだ。寒い。そんな陽気でも山の花々は鮮やかな姿をみせてくれる。しもつけそうとオダマキの 小雨の中で見せる淡いコントラスト。日本の国はこんな所だといって良い。ここへ烏揚羽が飛んで来れば 日本画になる。前本は上手く描くだろう。私の薔薇を見てもなんら興味を示さない前本は 「やっぱり薔薇は外国の色だ」と言う。私はそんな事は無いと思うが 言っても仕方ない。私は薔薇を日本画で描く事が出来る。黙ってはいるが 心の中ではそう言う。薔薇は私にとってかけがえのない家族である。長い年月を共に暮らした。葉山から一緒にこの地へ移った。初めて私のもとへ来た時のこと 病気になった時のこと 枯れそうになって復活した時の喜びを どの木の事も覚えている。今では大きな樹になって毎年花を咲かせ 新しい葉を茂らせ 毎日を共に暮らしている。そんな薔薇たちを私は描けない訳がない。

 

 

 

 

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多摩美へ入って 初めて耳にした印象的な言葉がある。「観念的」。教授達はのべつ幕無しにそう言った。高校を卒業して間もない私にとって それまでの人生で聞いたことも使った事もない言葉であった。それは日常生活では必要のない言葉である。「この子の絵は観念的過ぎる」「観念的なデッサンをするな」「観念的な構図」「観念的な発想」「観念的なフォルム」「観念先行型の作品」「観念第一の都会のインテリ」「観念的空想」最後には何が何だか判らなくなるくらい観念的を連発する。そのうち私はそれがよくよく解るようになった。絵を描く時に 観念は罪悪だとまで思う様になった。

「観念的 要するに頭でっかちなんだ」「人間の頭で考えられる範囲など大した事では無いと思いなさい」批評会で三人の教授達の言った言葉は身に染みた。 

 

 

 

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頭の中でだけ考えて描いた絵はつまらない。写真を見て描いた絵もつまらない。絵はそれ程薄っぺらなものでも 安っぽいものでも無い。上っ面だけを写す写実の何とも味気なく 虚しいことか。写生というのは 生を写すものである。


  

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つくりごとに満ち溢れた世の中 虚偽。自然は嘘をつかない。自然界に虚偽というものは存在しない。この花がいつ私に嘘をついたと言うのだ。私はそんな花達に噓をつくことは出来ない。誠実に付き合ってゆきたいのだ。その事で私は救われる。

 

 

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普遍的な美しさを追い求めたい。いつどんな時代にも 誰もが感じることの出来る美を見つける為に生きている。それを教えてくれるのは自然だけである。観念を捨て自然にひれ伏し 謙虚にそれを見尽くしたい。子規のように。

 

 

 

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   テラスに薔薇たちを飾る 私の夏が始まる。私は心からあなた達が好きだ。

 

 

 

 

 

 

                 ☆彡

                 

 

第三十三章 「とびだす絵本」2019・6

                                           

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                                                                   「とびだす絵本」 10号

 

 

 

 

5月の末に 郭公が鳴いた。今年の気候はいつになく不安定で とても寒い。6月の7日に梅雨入りしたがいつまでも晴れた日が続き肌寒い。朝夕だけでなく終日ストーブ を焚く事もある。朝霧が流れてくる。陽が昇ると清々しい風が晴天をもたらす。

 

 

 

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             六月の風は本当に綺麗だ。

「六月を綺麗な風の吹くことよ」子規の句そのままである。郭公の声がする。無数の緑。

 

 

子規の句が好きだ。私の人生の貴重な友。子規はとびきり絵が上手い。字も良い。子規の句を読むと心が浮き立つ。

 

 

 

   「けしの花大きな蝶のとまりけり」

大好きな句である。大きな蝶のとまった真紅のけしでこころがいっぱいになる。何もかもどうでもよくなるような美。

 

 

    「仏壇の菓子うつくしき冬至哉」

         しめやかな 懐かしい時代

 

 

    「惜気なく梅折りくれぬ寺男

         なんと喜ばしいことか

 

 

    「山門を出て下りけり秋の山」

         これ以上の秋は無いだろう

 

 

「九つの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす」

          私の一番好きな季節

 

 

 

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             六月 杜は白い花に覆われる

 

 

 

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       そして薔薇の季節。 一番花も白いばらだった。

 

 

 

一年に一度だけ逢える私の友人たち。庭も八年目になって大きな木に成長した私の薔薇。

 

 

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六月も終わりに近づいているのに 気温が低くいつもの半分程しか開花しない。

それでも 花の間をすり抜け 交し合った枝々をくぐりながら庭を見て回るのは至上の喜びである。太陽が沈むまで庭に居たい。薄暗がりの中で私は心からこう言う ああ面白かった。庭は格別に面白い所である。

 

 

 

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                  ❁❁❁

第三十二章 「マリエッタストロッチの彫刻」2019・5

 

 

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                       「マリエッタストロッチの彫刻」 

 

 

 

五月も十日が過ぎてようやく桜が咲いた。

「庭に菫が咲くのも」西脇順三郎の詩が思い浮かぶ季節になった。白いレースの装丁が好もしい 懐かしい詩集。詩歌や和歌は 心に情緒を纏った前本のような人のためのものだ。情緒纏綿たる前本の資質に事あるごとに驚かされる私にも 好きな詩がある。西脇順三郎の詩は 言葉が乾いている。音楽の響きとリズムある。詩集を開くと現実味を失った世界が出現する。何が言いたいか どんな事が詠われているのかと言った無粋な解釈を要求しない。多少気障な部分もあるが許せる範囲である。私は何に於いても 現実的な表現 直截な表現が嫌いである。勿論 絵についても同様である。

 

若冲などのどこが良いのか分からない。現実を執念深く描き込んで これでもかと言われると辟易とするではないか。この人は 眼に見える物しか描いていない。眼には見えない物の存在を知らぬかのようだ。ムンクなどもどこが良いのだろうか。大体において具体的な情景が描かれているような絵は大したことがない。水準の高い作品に直截な表現は見られない。挿絵のように物語性の強い作品は 解り易い為か人気はある。藝術と人気は無関係である。絵を見る時 何が描いてあるかでは無く美の水準の高さをみるべきである。色彩 構図 描写力と言った観点から作品を鑑賞することは初歩的な見方であって 優れた芸術作品にそのような事は既に完璧に備わっているのであるからそれを超えた美そのものに触れることである。第一級の作品だけを見続けることでその鑑賞眼は養われる。

幼い頃 祖母が新宿のデパートへ度々連れて行ってくれた。高級品ばかりが並んだ売場を見て回るのである。「本当に良い物を知っていれば大概のものは欲しくなくなるよ」と祖母は言った。素晴らしく手の込んだ織り帶 最高の皮を使った瀟洒なバッグ 溶けるような風合いのナイトガウン 夢のような色に染められたスカーフ。絵画 彫刻。外国の骨董品。工芸品 指物。祖母は私にそれらの尊さを真剣に教えた。帰りの省線で「眼の保養をしていればつまらないものは欲しくなくなるよ」と祖母は言った。そして「本当はね 見るだけじゃつまらない。自分で作ってみたいんだよ」と言った祖母の子供のように純粋なまなざしが忘れられない。祖母は私に絵を教えてくれた最初の大人である。書も教えてくれた。私は子供ながら 何でも自分で作ってみたいと思うようになった。見るだけではつまらない 美しいものを自分でも作ってみたい。これが私の原点かも知れない。結局 加山先生も前本も 見るだけでは飽き足らない種族である。美しいものを生み出す事に生涯を掛けて惜しくないという人達。

 

祖母と私は西荻窪こけし屋でミルクセーキを飲んで いつものように小さなガラスの動物を一匹買った。

今でも私の欲しいものは最高級品であるから 実際に買えるものではない。しかしそれ以外のものは本当に欲しくなくなるのだから 幼い頃の教育とは有り難いものである。

絵を観る時も同様であって 最高の作品ばかりを観ていればおのずと駄作が分るようにになる。 

 

 

           カルモジインの田舎は大理石の産地で

           其処で私は夏をすごしたことがあった

           ヒバリもいないし 蛇も出ない

           ただ青いスモモの藪から太陽が出て

           またスモモの藪へ沈む

           少年はドルフィンを捉えて笑った

                  

                   西脇順三郎「太陽」)        

 

     

 

 

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菫 タンポポ 花海棠 そして八重山吹が咲けば本当の春になる。町にいた頃 春は待つ間もなく あっけなく通り過ぎた。ここでは春を待つ時間はおそろしく永い。

 

 

 

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             春の始まりを告げるのは八重山

 

 

 

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               一斉に咲く花たち

 

 

 

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         薄霧の流れる早朝 私の庭にも桜が咲く。

 

 

 

                 山の桜

 

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           山桜は空を覆い尽くす 間断なく花びらが舞う

 

 

私達一家は降りそそぐ花びらの山道を歩く。長閑な幸せ。この幸せに巡り合うまで七十年の歳月を要した。

困った時人は進化する。困ったことに直面したらとことん困っていれば良い。独りでその底から這い出そうと苦心惨憺するうちに人は進化している。何度もそうしているうちに翼が生えて飛べるようになる。私は青い鳥の翼では無く 確実に自分の翼でここまで来た。しかしまだまだ先は長い 途方もなく長い。更に新しい翼が必要になるであろう。そして出来る事なら いつかはセザンヌの壺のようになりたい。

 

 

          「苦しんだ人間はセザンヌの壺のように美しい」

                              西脇順三郎

 

 

 

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                 八重桜が咲き

 

 

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               若葉の季節が訪れた

 

 

 

 

 

               ⚘⚘⚘⚘⚘⚘⚘⚘⚘ ⚘⚘⚘

第三十一章 「文鳥と桜」2019・4

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                              文鳥と桜」

 

 

四月に入って雪が二回降った。半ばを過ぎても 朝から小雪混じりの寒風が吹く日があり 日陰の残雪は未だに消えない。桜は連休中には咲くのだろうか。

 

 四月というのはいつもめちゃくちゃだ。夏の様になったり 雪が積もったりする。毎年のことなのだ。

 

加山先生が亡くなったのも 横浜の桜が散り始めた四月の初めだった。四月になるとつい懐古的になる。

 

先生は七十六歳だった。日本画家はおおむね長命だから もっと長生きなさると思っていた。あっけない訃報であった。

 

先生とは不思議な縁である。。いくら考えても 縁といった曖昧なものとしか言えないのだ。私の人生にとってそれは何であったのか。過去に対して もしこうでなっかたらと問うほど無意味な事は無い。分かっていても もし先生と出会わなかったら私はどんな風になっていたのかと思う。良きにつけ 悪しきにつけ 加山又造が私の人生に与えた影響ははかり知れない。強烈な影響を受けた時期と それを振り払おうとした時期が交錯し 苦しみに似た暑苦しい長い年月を過ごすうち 私は成熟した。

 

今となっては 桜のが散るのを眺めるように過去の一部分として完結した思い出になった。先生と過ごした年月で得た経験が 年功を積むにつれ円熟したように思える。私は老成した。ご存命中は のどかな気持ちで花を愛でる事は無かったが 散って始めて冷静になれる。先生は私にとって桜のようなものだったかも知れない。

 

 

 

 

 

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晴れた朝 明るくなった陽射しを受けて山々の表情が優しくなった。春は近い。桜 水仙 梅 牡丹 何もかも一斉に咲く 山の春。

 

先生は私が人里離れた山奥に住みたいと話す度 「やめといた方がいい」と繰り返しおっしゃった。いくら話しても 「全く分からん」の一点張りであった。先生と私の決定的な相違点である。中央で大活躍したい先生と 静かにじっくりと研究したい私とは水と油であった。派手好きな先生のために私はできる限りのことはした。仕事と割り切るのが私の主義である。フルメークで大きな重いイアリングを付けた私を 今はとても懐かしく思う。まあそんな事があっても良かったと。

 

「モジリアーニの裸婦 こないだ画商が見せてくれてさ 凄いね たった今出来たばっかみたいでさ あれはすごいね 研究と苦心の賜物だったね 絵の具がさ 画面にピッタリとくっついてて そりゃあ半端じゃないんだ なかなか出来るもんじゃないね あれだけのことは」 心から感心したとおっしゃって 「上手い絵っていうのは 今仕上がったばかりの張りと新鮮さがある 結局は通説を鵜吞みにしないで独自の研究をすることだね 生きることは研究だ」

この点については私は芯から共感する。だから静かに研究出来るところに来たかったのだ。生きることは研究だ。

 

 

 

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               春の夕刻 この静けさ

 

 

 



 

                 ✿ ✿ ✿✿✿✿ ✿✿✿

 

第三十章 「パンジーと白猫」 2019・3

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                                                                                               「パンジーと白猫」

 

 

家々の玄関先にパンジーの寄せ植えが並ぶ 都会の早春を思い出す。八ヶ岳では 三月に入ってから寒い日が続いている。パンジーなど何処にも見当たらない。梅も桜も固い蕾をつけたまま じっと黙り込んでいる。

 

パンジーは三色菫で ワインは葡萄酒である。美しい色が見える。日本画の絵の具は美しい。始めて岩絵の具を使った時は 美し過ぎて使いこなせなかった。天然の岩絵の具は 宝石の原石を砕いた粉末でその粗さによって番号が振ってある。基本的には混色は出来ない。今は アクリル絵の具の中に粗さの異なる岩絵の具を混ぜ込んだり 人造の絵の具で混色出来るものもあるが 私はそうした事をしない。日本画は不自由な 使いにくい素材を丹念に使いこなしてこその絵画である。

 

途方もない研究と根気で絵具や筆を使いこなしてゆく地道な努力の積み重ね以外 深い味わいを出すことは出来ない。絵を描く者とは 人知れない鍛錬をする事で自らを磨き上げたい人の事である。

 

容易にはできない事にしか希望を見出せない種族と言ったら良いのか。修行僧のような日々を過ごし 絵を描くことが染み付いてしいる人達。絵を描くことは 唯独りで果てしない道を歩み続けることである。

 

教科書もお手本も無い。自分で方法を編み出し 試作を重ね 失敗の連続の中から自分のやり方を見つけるしかない。知恵と経験と探究心で黙々と描くしかない。

「後は念力しかない」と 加山先生は常におっしゃった。祈るしかないのだ。前本は朝から晩まで画室に居る。僧侶が経典を読んでいるのと変わらないと私は思う。

 

 

 

 

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春の淡雪は 深夜から明け方まで音もなく山々を木々を覆い 陽が高くなる前には消えてしまった。

 

 

 

 

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             一瞬の間出現した淡雪の杜

 

 

 

 

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              繭の中はこのようであろう。

 

 

 

 

 

               ❅❅❅  ❅❅

第二十九章 「甲斐駒三月」 2019・2・18

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                             「甲斐駒三月」

 

 

 

 

今年の冬は特別である。雪の無いお正月 雪の無い二月 雨も降らない。道は乾いて風で土埃が舞い上がる。春先の景色。

 

一月の半ばにみぞれが一度降ったきりで それもすぐに乾いてしまった。氷点下十度以下になるはずの二月に入っても春のような暖かさが続いている。朝方は小雪が舞うことがあっても お昼をすぎれば来る日も来る日も 蜜柑色の午後が訪れる。

 

 

 

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私はテラスの手すりにもたれて桃色の雲が流れてゆくのを眺めている。ここが私達の終の棲家になるだろう。木で出来た 古い小さなこの家が私は好きだ。毎日この空を眺めて幸せこの上ない。

 

静かに暮らしたかった。都会で色々な人に囲まれ いろいろな所へ出掛けなくてはならないせわしない暮らしをした。自分を見せる事に終始しているのが都会の暮らしのような気がしていた。自分を飾り 良く見せるための小さな噓 保身の為のはったり 欺瞞に満ちた生活。自己実現とは何ぞやと思った 発信しなければなりませんとは如何なることか。少しの得を求めて情報に群がり 仲間外れにならないように走り続ける人々。素敵な生活をしていることを顕示し 素敵な服を次々と買いあさり そして捨てる。美味しいものをあれもこれもと食べ歩く。素敵な生活 お洒落なガーデン 可愛いペット 素敵な家 素敵なキッチン お洒落な食事。それを顕示する為の人寄せ。お世辞ばかりのお喋り。

虚しい。空虚な日々。

 

私にとってはどれ一つとして魅力がなかった。私に必要なものは都会には何一つ無かった。

私は写生をしたり 字を書いたりして静かに時を過ごすのが好きなのだ。字と言えば 最近目にする文字のあざとさに呆れかえる。子供達の鉛筆の持ち方の悲惨さには言葉を失う。その中で 清涼な風のように 藤井七段の揮毫した書の 教養ある伸びやかさに心惹かれた。すっと素直な字を書く事が出来るのは普段から良い書に親しんで習っているからであろう。最近は鉛筆をどのように持とうが 字が書ければそれでよいらしい。

早い話が結局は どれだけ優秀な所に就職できるかだけが問題なのだ。生まれた時から

就職活動を強いられていると言っても良い。表面さえ整えば内面などどうでも良いのだ

書画などは一文の得にもならない。実際そうである。

 

一文の得にもならない事がしたいと思ってしまったのが前本と私の人生である。笑ってくれて構わない。貧乏と隣りあわせの人生である。そうすることが素晴らしいとか尊いとか高尚だとか使命だとか そんな風に思っている訳ではない。それしかする事が見当たらないと言ったら良いのだろうか。美しいものが三度の飯より好きなのは間違いない。美しいものを知る喜びを知ってしまった。

 

 

 

 

 

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これは唐時代の書家 褚遂良の雁塔聖教序である。この書を初めて見たのは三十代の頃であろうか。先生のアトリエで いつものように先生はお客様がありとてつもなく広く散らかった鶴見のアトリエは 画集と書のお手本の宝庫であり私はいくら待たされてても構わなかった。最近は 褚遂良は線が細くとげとげしい気がして余り習わないが 初めて見た時は強く惹かれた。「木」という字の美しさに魅了され 先生の筆を借りてその場で習った。やあ 悪かったですねと先生が戻っていらして 褚遂良を見てたのとおっしゃりながらお手本を書いて下さった。先生は褚遂良を随分と習っていらした。

 

 

 

 

 

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同じく唐代の書家欧陽詢の九成宮醴泉銘 穏やかな文字と奇抜な文字はやさしいといわれる。欧陽詢は奇極まって正となり しかも真の穏やかがある。深い研究と鍛錬無くしては到達できない創造のたまものである。穏やかであるのに強く 角ばっていながらふくらみがある。

 

 

 

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欧陽詢より一つ年下の虞世南の孔子廟堂碑。私は虞世南の字が好きだ。あざとさ

が無く伸びやかで静かな気品がある。

 

 

名誉や利益 欲や煩悩から解放されなければこの様な書を書くことはできない。書画は雑念を捨て無我無心になった時に自分が滲み出るものである。こうしたら褒められるかこうしたら売れるかと 小手先の技巧に走り 浅知恵を絞って個性的な作品を作ったところで全く意味のない駄作しかできないということを唐代の書家は語っている。

 

 

 

 

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夕暮れ時 私はフクロウが啼き出すの待っている。大きな声で ホウと一声啼いたあと詠うように  ホッホ ホー ホウホウホウと啼く。森の何処でたった一人で歌っている。温かく寂しく 森を包む。

 

 

 

 

 

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