第三章 椿下白猫
「椿下白猫」 (ちんかはくびょう)
50号M 1997年制作
夏の終わり 空にはまだ夏雲 雨ばかりの九月 庭は秋海棠に覆われた
野菊
秋の花はどこか儚い。「儚い」という字は前本の絵のようだ。人が夢見ている形なのかも知れない。
私が秋海棠を描くと前本が笑う「まるで春の花だね」。確かにそうだ、と私も思う。およそ儚い所の無い私は、花弁にリズム感のある大ぶりの花が好きだ。向日葵 ダリア 百合 薔薇(バラの花は中輪の方が良い)、どちらにしても前本とは正反対かも知れない。美大の学生だった頃、夏休み明けの批評会に向日葵の作品を提出した。教授一同が「とうとう出たね この子の十八番!」という事で、私は自分がそういう資質であることをいやおうなしに自覚せざるを得なかった。その上前本にまで何を描いても春か夏の花になると言われれば、観念してその方向にゆくべきか・・・
前本は七月生まれだから夏が一番好きだと言う。向日葵は、花びらの先の透き通った所に惹かれるそうだ。・・・らしい! 前本の描く花は夢見るように咲いている。特に好きなのは 「乙女椿」と「黄花木香薔薇」のようだ。葉山の家ではカスタードクリーム色の木香薔薇が、大きく茂って春の訪れを知らせてくれた。八ヶ岳の気候には馴染めずに枯れてしまったのを、しきりと残念がる。来年は植えなくてはと思っている。乙女椿も、鹿に食べられてしまった。鹿は庭中の物を食べ尽す。椿の葉は油が多いので特に好きらしい。
仕方なく庭の周囲に柵を巡らせ、今年小さな苗を植えた。
北海道には、内地(北海道ではそう言う)と違うエキゾティシズムを感じる、と同時に雪国独特のロマンがある。北海道生まれの前本がちょっとバタ臭いもの(この言葉は絶滅種か?)に惹かれるのは当然のことだ。アンティークドールや百合などを描いた、リリックな作品「Lilyの棚」は「この子の十八番!」と言えよう。
さて、十八番と云えば猫。前本の面目躍如たる作品が多い。
夏の日 10号M
2014年 制作
蘭と白猫 6号F
2006年 制作
紫陽花と黒猫 20号F
鹿ノ子百合と黒猫 6号F
2009年 制作
黄牡丹と白猫 20号変
2007年 制作
私達はそれまで猫を飼ったことがなかった。二十年程前、親友が小さな子猫を連れてきた。 「露露」だった。彼女は私の幼なじみの友人であり、恩人である。その貴重な友が、かけがえのない猫との出会いもたらしてくれるとは。それは千載一遇の機会であった。
私達の家にはいつも犬がいて、丁度その頃も来たばかりの仔犬が二頭いた。どちらも可哀想な子達で、死にかけていたのを引き取った。その二人がなんとか元気になったのを見計らって露露をもらった。
同い年の三人はいつもひっついて眠り、玉のように転げ回って遊んだ。
露露 珠珠 茶以
ちびっ子三姉妹は大変仲が良かった。そして、温厚なスピッツの茶以とフレンドリーなコッカーの珠珠を仕切っていたのが、この小さな子猫の露露だった。子犬達の
事は私に任せてくれと言わんばかりに奮闘する姿が健気でほほえましく、頼もしい気
がした。頭脳明晰で姐御肌なところがあった。
こんな幸せな日々はもう戻らない
露露は格別の美形であった。初めての猫がこれほど絵になる猫だったとは、前本は幸運な絵描きと言える。。神様の贈り物であろうか。その上私は、前本自身が猫であったのを思い知らされた。足音がしない、あまのじゃく、すべてが完璧な猫ではないか。露露は前本の正妻で、私はお世話係といった毎日であった。露露は膨大なスケッチと作品をもたらしてこの世を去った。今でも前本は露露の面影を描く。
大人になった三人
私は人間の言葉が聞えると絵が描けない。しかし、言葉を話さない温かい生き物が自由に歩き回っている中に居たいのである。前本は相変わらず猫を描く、しかしながら今居る2匹の猫はモデルには採用されないようである。
最近、黒猫の作品が版画になった。幸運なことに、昨日散歩道を黒猫が横切った。
リトグラフ 「黒猫 金」
版画工房「カワラボ!」の河原・平川ご夫妻は前本が信頼を寄せる本当の刷り師である。初めての版画を安心して任せた。マニアックな仕事ぶりに感謝している。おふたりは芯から版画を刷るのが好きなのだ。創造に何より大切なのはそれではないか。加山先生の口癖は「好きこそものの上手なり」であった。
秋晴れの朝
今頃の季節を 白露 と言う。秋分の十五日前というから今日あたりなのかも知れない。露露を見た前本が名前は「白露」にすると言った。本名は白露にして呼び名を露露にした。露露に先立たれた後、前本はもっと長生きしそうな名前にしておけば良かったと嘆いた。
秋晴れの朝、ススキの葉先に置かれた露。自然はなんと美しく清浄なのだろう。散歩の途中、前を通るだけで心洗われる庭がある。心映えさながらの端正さが見る者を浄化する。庭はその人そのものと言われる。絵もその人そのものであることは間違いない。面相で引いた細い線一本にその人のすべてが現れる。資質、見識、生きる姿勢、美意、価値観、人生、すべてが解かる。理想とする一本の線を手に入れるために歩んできた私達にとって、日本画は人生を捧げるに充分過ぎるものである。
良い絵は清浄であり、見る者を浄化する。卑俗を神聖に転ずるものである。そのような馥郁たる作品は多くない。そう簡単に描けるものではない。その為の精進にどれ程の努力と歳月が必要なことか。
しかし、作家はそれを目指す以外に何を目指せと言うのか。前本はよくこう言う。「絵が汚れる」 絵が汚れるような生き方は出来ない。
その昔、日本では芸事をする者は何かに憑依されて気が狂った「物狂い」と言われていた。まあ、絵を描くなどはまともな者のする事ではない。美術大学にゆきたいと言い出した私に、明治生まれの父は「頼むからもっとまともな大学に行ってくれ」と言った。
私達がまともでないのは承知している。仕方がないと思う。居直っているのでは無い。何よりも日本画が好きなだけである。
去年ノーベル賞を受賞した山梨県出身の大村先生が、「自然と芸術は人をまともにする」とおっしゃったことを聞いて安らかな気持ちがした。
蘭と月光
月の綺麗な季節を迎える
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