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日本画の杜 第四章 「紫苑」 2016・10

 

 

第四章 「紫苑」

 

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                         2014年制作 「紫苑」 4号

 

 

 秋の山を撮ろうと晴れるのを待っていた 十月になったのに雨の毎日 紫苑の咲く頃にこんなにお天気の悪い年はない

  

    

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 庭に蝶々が舞い込む 浅黄斑だ 南へ帰らなくてもいいのだろうか いつもの秋より暖かいのかも知れない

 愛らしい水玉模様と水浅黄色の翅が美しい いつも一人で来るのが良い 柔らかな風に乗り 静かに飛ぶ姿は見とれるほど優雅だ 

  

 

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 晴れ間をみつけて谷を見渡す坂の上まで歩いた 小さな菊が咲き 色とりどりの実が成っていた 長雨に降り込められているうちに 草木は着実に季節を迎えていた

 

 

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                 紫苑

 

 

 秋が来ると前本の描いた「FALL」を懐かしく想う 1976年の神奈川県展に出品する為に夏の暑い盛りに制作していた それから四十一年も経つはずなのに どの作品よりも鮮明に記憶している 黒い裸婦を描いたその作品を初めて見た時の気持ちをはっきりと覚えている 一瞬の秋を捉えた緊張感と静謐さ そして前本らしい斬新さ グールドのバッハが聞こえるようだった 言葉に出来ない心の内を余すところ無く表現していた -言葉を超えた表現ー これこそが 絵を描くことだと思わせるような作品だった

作品写真が見つからない

 

                            1979年 31歳

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 「FALL」の後 前本は黒い人物を続けて描いている 『肌色を用いたヌードは、人間存在が稀薄になる。肝心な何かが抜け落ちる』と前本は語っている

 『肌色にして描くとどうしても女を描いたという感じになってしまう。美人画とか女性美とか、そういうものを描くのではないという事で肌色を拒絶し、黒によって自分の気持ちを裸婦の形を借りて描いてみたかった。だから、裸婦といっても自画像のようなものだった。』美術雑誌の取材で 三十七才の前本が黒い人物を描いていた頃を回想して答えている その後一転して白い人物を描いていたので この記事のタイトルは

「玄から―白ーそして、白を越えたもの」となっている どのような理想に向って制作しているかと問われ 「私の絵の理想ー 妖艶・幽玄・余情を重んじ 感覚の幻想を追い遊ぶ」と答えている それから三十年以上経った 今でも同じ気持ちで制作しているに違いない

 

 

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     上の二点は1979年制作 「暗い部屋Ⅰ」 「暗い部屋Ⅱ」 いずれも100号

  1980年の神奈川県展に出品し 大賞を受賞した

 

 当時は ずいぶん個性的な作品と言われた 私は釈然としない思いだった そんなひと言では片付かない気がした そして個性とは一体何か と思った

 

  その思いに答え得る 加山又造の「新人へのアドヴァイス」の一部を抜粋した  

 

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『近年、個性尊重が叫ばれ、何よりもまず個性という声が強いが、人それぞれ個々の人格を持っている以上、他とは違ったものを持っているのは当然であり、反面人間の肉体のメカニズムが一定である以上、飛び抜けて違った個性など有り得るはずがない。逆に言えば、個性をはじめから自己の中に望むのはどだい馬鹿げた話である。だから自分の信じるもの、描きたいもの、学びたいものを飽かずにできるだけ安定感を持って繰り返す、その繰り返しの中でますます育ち、どうしても消えないある一つの点、短所とそして長所の入り混じった極端なもの、それを見付け出したとき、それがはじめて自分の個性、本性的な個性になるのではなかろうか。

 だからありもしない個性と呼ばれるものを無理して作る、ないしは自分の中に探し出そうとする愚は、自分の優れたものを破壊していると考えられるように思えてならない。その自己追及のために、目から頭、そして手へつながる運動の繰り返し、いわゆる空白、ブランク、それを自分で傷つけ、印し、描いていくそのもっとも人間的なプリミティブな喜び、それをどのような角度から自分の体質にしてしまうか、それが最も重要な部分であろうと思う。』

 

  個性を重視するあまり ーありもしない個性ーを捏造した個性な絵 既成の情報を寄せ集めそれらしい個性をでっちあげた絵 そのようなものばかりになってしまった 四十年前に加山先生が危惧していらしたことが すっかり定着した感があるように思うのは私だけだろうか 自己を追求し 美意識を磨き 教養を深め 独自の人生観を養い個性を見付け出し 創造する為の永い修練 それも絶えざる修練が必要であると先生は繰り返しおっしゃっていらした

 現代日本の文化水準は決して高くはない それは世の中が機械のスピードになったからではないか 人間の早さでしか出来ないことが軽視され 即効性のあるものばかりに高い評価が与えられている しかし機械に芸術は出来ない 夥しい量の情報を人間が詰め込んだロボットが描いた絵に一体どんな価値があるというのか 芸術を深め 高める為に要する永い時間を短縮することは出来ない 何とか短時間で効果を上げる方法を見つけようとするなど愚の骨頂といえよう そう考えた瞬間に美の女神からみはなされる

 永くて地味な修練 訓練とも言える程の気の遠くなるような努力 これ無くして日本画は描けない 更に ようやく見い出した個性を洗練する為の修練と努力 人生をすべて掛けても足りる事は無い 土牛の名言 「どれだけ大きく未完で終われるか」であろう

 これから益々機械化が進み 人は更にスピードを求めてゆくだろう 便利で派手な いわゆるインパクトのあるものばかりに価値を見い出してゆくのか 日本画などは衰退の一途を辿るのか 神様はどうなさるおつもりか

          

              ・・・・・・・        

 

  山の写真が撮れなかったので前本の「野の九月」をご覧頂くことに致します

 

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                              2015年 制作 20号

 

 

 

 

 

 

 

                  🍂

 

 

 

日本画の杜 第三章 「椿下白猫」 2016・9

 

第三章 椿下白猫 

 

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                     「椿下白猫」 (ちんかはくびょう)

                         50号M  1997年制作

 

 

      夏の終わり 空にはまだ夏雲 雨ばかりの九月 庭は秋海棠に覆われた

 

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                                  野菊

                                                   

                                     

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                   秋明菊

 

  秋の花はどこか儚い。「儚い」という字は前本の絵のようだ。人が夢見ている形なのかも知れない。

 

 私が秋海棠を描くと前本が笑う「まるで春の花だね」。確かにそうだ、と私も思う。およそ儚い所の無い私は、花弁にリズム感のある大ぶりの花が好きだ。向日葵 ダリア 百合 薔薇(バラの花は中輪の方が良い)、どちらにしても前本とは正反対かも知れない。美大の学生だった頃、夏休み明けの批評会に向日葵の作品を提出した。教授一同が「とうとう出たね この子の十八番!」という事で、私は自分がそういう資質であることをいやおうなしに自覚せざるを得なかった。その上前本にまで何を描いても春か夏の花になると言われれば、観念してその方向にゆくべきか・・・

                                   

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 前本は七月生まれだから夏が一番好きだと言う。向日葵は、花びらの先の透き通った所に惹かれるそうだ。・・・らしい! 前本の描く花は夢見るように咲いている。特に好きなのは 「乙女椿」と「黄花木香薔薇」のようだ。葉山の家ではカスタードクリーム色の木香薔薇が、大きく茂って春の訪れを知らせてくれた。八ヶ岳の気候には馴染めずに枯れてしまったのを、しきりと残念がる。来年は植えなくてはと思っている。乙女椿も、鹿に食べられてしまった。鹿は庭中の物を食べ尽す。椿の葉は油が多いので特に好きらしい。

 仕方なく庭の周囲に柵を巡らせ、今年小さな苗を植えた。

 

 北海道には、内地(北海道ではそう言う)と違うエキゾティシズムを感じる、と同時に雪国独特のロマンがある。北海道生まれの前本がちょっとバタ臭いもの(この言葉は絶滅種か?)に惹かれるのは当然のことだ。アンティークドールや百合などを描いた、リリックな作品「Lilyの棚」は「この子の十八番!」と言えよう。

 

 さて、十八番と云えば猫。前本の面目躍如たる作品が多い。

 

 

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                          夏の日   10号M

                              2014年 制作

 

 

 

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                           蘭と白猫  6号F

                              2006年 制作 

 

 

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                         紫陽花と黒猫  20号F

                               

                           

 

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                         鹿ノ子百合と黒猫 6号F

                               2009年 制作

 

 

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                                                                               黄牡丹と白猫  20号変

                                2007年 制作

 

 

 私達はそれまで猫を飼ったことがなかった。二十年程前、親友が小さな子猫を連れてきた。 「露露」だった。彼女は私の幼なじみの友人であり、恩人である。その貴重な友が、かけがえのない猫との出会いもたらしてくれるとは。それは千載一遇の機会であった。       

       

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 私達の家にはいつも犬がいて、丁度その頃も来たばかりの仔犬が二頭いた。どちらも可哀想な子達で、死にかけていたのを引き取った。その二人がなんとか元気になったのを見計らって露露をもらった。

 

   同い年の三人はいつもひっついて眠り、玉のように転げ回って遊んだ。

 

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   露露             珠珠           茶以

 

 

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  ちびっ子三姉妹は大変仲が良かった。そして、温厚なスピッツの茶以とフレンドリーなコッカーの珠珠を仕切っていたのが、この小さな子猫の露露だった。子犬達の

事は私に任せてくれと言わんばかりに奮闘する姿が健気でほほえましく、頼もしい気

がした。頭脳明晰で姐御肌なところがあった。

 

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         こんな幸せな日々はもう戻らない

 

 露露は格別の美形であった。初めての猫がこれほど絵になる猫だったとは、前本は幸運な絵描きと言える。。神様の贈り物であろうか。その上私は、前本自身が猫であったのを思い知らされた。足音がしない、あまのじゃく、すべてが完璧な猫ではないか。露露は前本の正妻で、私はお世話係といった毎日であった。露露は膨大なスケッチと作品をもたらしてこの世を去った。今でも前本は露露の面影を描く。 

 

 

 

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    大人になった三人

 

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  私は人間の言葉が聞えると絵が描けない。しかし、言葉を話さない温かい生き物が自由に歩き回っている中に居たいのである。前本は相変わらず猫を描く、しかしながら今居る2匹の猫はモデルには採用されないようである。

 

 

 

 最近、黒猫の作品が版画になった。幸運なことに、昨日散歩道を黒猫が横切った。

 

          リトグラフ 「黒猫 金

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 版画工房「カワラボ!」の河原・平川ご夫妻は前本が信頼を寄せる本当の刷り師である。初めての版画を安心して任せた。マニアックな仕事ぶりに感謝している。おふたりは芯から版画を刷るのが好きなのだ。創造に何より大切なのはそれではないか。加山先生の口癖は「好きこそものの上手なり」であった。

 

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                秋晴れの朝

 

  今頃の季節を 白露 と言う。秋分の十五日前というから今日あたりなのかも知れない。露露を見た前本が名前は「白露」にすると言った。本名は白露にして呼び名を露露にした。露露に先立たれた後、前本はもっと長生きしそうな名前にしておけば良かったと嘆いた。

 秋晴れの朝、ススキの葉先に置かれた露。自然はなんと美しく清浄なのだろう。散歩の途中、前を通るだけで心洗われる庭がある。心映えさながらの端正さが見る者を浄化する。庭はその人そのものと言われる。絵もその人そのものであることは間違いない。面相で引いた細い線一本にその人のすべてが現れる。資質、見識、生きる姿勢、美意、価値観、人生、すべてが解かる。理想とする一本の線を手に入れるために歩んできた私達にとって、日本画は人生を捧げるに充分過ぎるものである。

 

 良い絵は清浄であり、見る者を浄化する。卑俗を神聖に転ずるものである。そのような馥郁たる作品は多くない。そう簡単に描けるものではない。その為の精進にどれ程の努力と歳月が必要なことか。

 しかし、作家はそれを目指す以外に何を目指せと言うのか。前本はよくこう言う。「絵が汚れる」 絵が汚れるような生き方は出来ない。

 

 その昔、日本では芸事をする者は何かに憑依されて気が狂った「物狂い」と言われていた。まあ、絵を描くなどはまともな者のする事ではない。美術大学にゆきたいと言い出した私に、明治生まれの父は「頼むからもっとまともな大学に行ってくれ」と言った。

 

 私達がまともでないのは承知している。仕方がないと思う。居直っているのでは無い。何よりも日本画が好きなだけである。

 

  去年ノーベル賞を受賞した山梨県出身の大村先生が、「自然と芸術は人をまともにする」とおっしゃったことを聞いて安らかな気持ちがした。

 

 

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                                  蘭と月光

 

              月の綺麗な季節を迎える

 

 

 

 

 

 

 

 

                  🌙

 

 

日本画の杜 第二章 「夏の花籠」 2016・8 

      

                          

第二章 夏の花籠

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                          2012年制作 「夏の花籠                                                       

 

 私達が、度重なる引越しの末ようやくたどり着いた北杜市はどこからでも山が見える。その上、至る所に花が咲いている。小淵沢の駅に向かう道沿いに真っな罌粟が満開になると、六年前ここへ来た頃をなつかしく思い出す。

「夏の花籠」は、初めての夏にスケッチした花々を描いた作品である。

 

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 八月の杜

蝉の声しか聞こえない。

 

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                     半夏生

 

f:id:nihonganomori:20160804163018j:plain蓮華ショウマ

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そして山百合   熱心に蜜を吸う烏揚羽

 

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前本がスケッチしているのは朝顔

 

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                短い夏の始まりである。  

 

 

 

                                                                                                                                     f:id:nihonganomori:20160809165330j:plain2008年 制作

                             「卓上の夏」        

                              

 

                                 f:id:nihonganomori:20160809170507j:plain                               2008年 制作   「残りの夏」

 

        

 

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     荘厳としか言いようの無い早朝の杜 朝日が射して百合が咲いた

 

              

 

     ひっきりなしにやって来る揚羽

                                                               f:id:nihonganomori:20160815155943j:plain

f:id:nihonganomori:20160809174731j:plain 花の様子は刻々と移ろう 美しく咲いた時をのがさぬよう

             朝食前から写生を始めた    

 

 

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          底紅の木槿が咲き

 

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                               夏薔薇が咲いた

   

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     白百合は木陰で見るのが美しい

 

 

          

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             満開のルドベキア 前本は今朝も写生

 

 愛情とは何かと聞かれたら、「見ること」と答える。唯々見る。黙って見続ける。花を育てて来てそう思った。犬猫も同じように見てやることだ。

 毎日毎日見続ける事。昨日とどう違うのか、何が必要なのか。何が言いたいのか。困った事は無いか。どんな事が嬉しいのか。どうして欲しいのか。黙って見ていればよく解かる。解かって来れば、適切に対処出来る。

 

 描きたいものを見ていれば、どうしてそれを描きたいのか解かって来る。どうして美しいのか、どんな所に美しさを感じるのか。よくよく見ながら知ろうとする。

 そして、美しさを表現するする為にはどこを強調し、どこを省略したら良いのか解かって来る。

 絵とは、画家が「どう見たか」を記したものと言って良い。そして、その画家がどこを強調し、どこを省略しながら誠実に心情を表現しているか。

 良い作品からは、そういった画家の心構えと眼差しが、ひしひしと伝わってくるものなのだ。写生をするという事は、モチーフに愛情を注ぎ続ける事だ。時にその愛情は、家族にさえ注がぬ深いものとなる。安田靭彦が「それは仕方がない」と言った。大そうな名言だと思う。仕方がない!家族は二の次だ。あっぱれではないか。

 

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                                   2010年 制作      カサブランカ

 

 

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           2009年 制作      文鳥朝顔

 

 

            残暑お見舞い申し上げます

 

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                                                     「夕顔」

 

 

 

 

 

 

 

                   🌻

日本画の杜 第一章 「三月の肖像」 2016・7

             日本画の杜

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          前本利彦の作品に寄せて北杜市から

2016 7月                             前本ゆふ 

第一章 「三月の肖像」

 私達がこの杜に来て五年が過ぎた。白い花の季節になった。純白の糊空木はひっそり

と咲く。

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 高い木の茂る杜には神が宿ると聞いて いつか住んでみたいと思っていた。念願叶っ  

て 山梨県北杜市に移り住んだ。ここは八ヶ岳南麓 山の中だ。窓から見えるのは無数の大木。 梢を交す木々と一緒に暮らしている。 見渡す限りの杜を見ていると つくづく思う。私達は 日本画に囲まれて過ごしてきたのだ。 日本画の杜の中で。  

 

日本画の杜は十八才の私の前に現れた。美術大学で出会った前本と 杜に向かうことになる。そして半世紀 明けても暮れても日本画に終始し 日本画の僕となって杜をさまよっている。

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 この作品は「三月の肖像」 初めて個展を開いた前本二十三才の若描きである。残念ながら 当時の案内状はモノクロであった。四十五年ほど前のことである。添えられた文章は 週刊新潮の編集長をしていらした野平健一氏から贈られた。野平氏ご夫妻は 貧しく恵まれない若い絵描き達に 何かと良くして下さった。ご馳走になったり 映画や人形浄瑠璃に連れていって下さった。画廊が好意で貸してくれた会場で 初めての個展を開く若者に贈られた激励の言葉であったが 私達二人は古色蒼然たる言葉にびっくりした。今になって その深い味わいがよく解かる。実際 痛々しいまでに「いっしょうけんめい」やったのだし 若者特有の思いはいつの時代も変わらない。お気持ちあふれるメッセージで初めての個展を飾って頂いたことは僥倖であった。

 

 この頃 多摩美日本画科の四年生であった前本と私は安アパートで暮らしていた。前本は 担当教授の加山又造氏に「そんな状況で よくこんな絵が描けるものだ」と言われたそうだ。私達は現実をきちんと理解することが出来なかった。今でも前本は 抒情に満ちた 夢とも現実ともつかない世界の中に居る。

 

 「三月の肖像」を見ていると数十年も昔の早春の空気が甦って来る。画面左上に三月の風景、鳥、魚、人物、すべてが沈黙し 現実味を失った光景。これが 前本利彦の原点である。

 

f:id:nihonganomori:20160713194118j:plain初めての個展を終えて 私達は四回目の引っ越しをした 米軍の払い下げた『ハウス』と呼んでいた貸家で暮らした極貧の青春!前本は常に風邪気味で 半病人であった。この頃描いた作品は 黒い人物が多い。私は これらの作品を見るたびに 胸を打つ悲しみと同時に希望を感じる。これほどまでに青春そのものが描けたことに安堵するのだ。文学 音楽 絵画 いわゆる芸術と言われる分野で生きてゆく者は その時々の心象を表現出来なくてはならない

それが深ければ深いほど高度な芸術なのだ。 

 

                                            

   

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 木槿の花を付けた少女。深い洞察力を持った眼差し。少女の瞳を借りて描いたのは画家の心の叫びであった。物事の本質を見抜く力こそが絵描きにとって一番大切なのだと前本は言いたかったのか。

 

 こうして表現された前本の心を理解する人は少なかった。「暗い絵」の一言で片付けられた。唯一の救いは モデルとなった少女の「私はこの絵嫌いじゃない」と言う言葉だ。

 

 本当の事・・・真実を突き付けられるのを人は嫌う。オブラートに包んで欲しい。しかしながら それを避け 真実と向き合う事なしに生きて行くことは心を砂上の楼閣に置くのと変わらない。ましてや芸術を志す者が 真実を見ずして何が出来ようか。内在する悲しみ 怒り 不条理 暗い感情と向き合い 表現する事で前本は心を傷つけ 身体を病み そして同時に救われた。自らの創り出したものに救われて生きてきた。

 

 暗い 明るいで短絡的に判断してはならない事がいくらでもある。前本が気持ちを託したモデルの少女も 深い洞察力を持って生まれた故に傷ついていた。しかし それを糧として成長し 他者の痛みの解る大人になった。

 

 木槿の花の悲しみに満ちた色は 若き日の心の色。私達にとって懐かしくも悲しいものである。

 

 

 

 

 

 

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