第六章 「天使とバラ」
2009年制作 「天使とバラ」 10号F
十二月に入ると良く晴れて温かい日が続いていた。冬晴れの八ヶ岳南麓は 夕暮れ時が美しい のどかな雲が桃色に染まって 山の端から月が昇る
早朝の雲もまた美しい 空と雲は一時もとどまらず どんな時も心を打つ
月半ばになって 朝は氷点下7度という日もある 寒いけれど八ヶ岳の冬は美しい
今朝はこんな綺麗な霜柱を見つけた
一年中 どの月もそれぞれの楽しさ 美しさがあっていつも描きたいものばかりの八ヶ岳は本当に良いところだ 一年の終わりが近づくとしみじみそう思う 同時に ここへ来るまでの多難な日々のことが思い出される
そもそも私は何故日本画を描くようになったのか 美大の日本画科に進もうと決めたのは高校二年の時だった 遅すぎると誰もが言った これから受験のデッサンを始めても絶対に現役では入れないと私も思った それまでは外国に行くつもりでいた 独りで知らない所へ行って見たかった 外国の女の子と文通していた私は 「日本にはどんな絵画がありますか?」と書いた航空便を受け取って慌てた その頃の私は マチスとクレーに心酔しグ―ルドとジョンレノンに狂っていた極一般的な女子高生である セヴンティーンを読んではアメリカのティーンエージャーの暮らしに憧れたりしていた 日本の絵画といわれたって・・・ カレンダーは林武と梅原龍三郎一辺倒の時代である 高校の図書室に行って調べなくてはいけない 図書室の本棚に「屛風絵大全」というような重たい 一度も開かれたことのないと思われる画集があった これなら日本の絵画として外国の子に紹介できるだろう 放課後の 夕暮れの光景を昨日のことのように覚えている その画集が 私を日本画の世界へ誘った
始めて見た日本画 外国人が屛風絵を始めて見た時の気持ちと変わらなかったと思う
エキゾチックでワンダフルであった なんと斬新で流麗なリズム感であろうか
全ての絵を見終わって私は決めた こんな絵が描けるようになるのなら美大の日本画科へ行こう 外国はそれからでも遅くはない 何としても日本画を描きたい 私の願いはそのことだけに集中した その甲斐あってか 多摩美の日本画科に合格した
右双
日月山水図 六曲一双 左双
春日鹿曼荼羅図
柳橋図
吉野山図
どれも室町時代から桃山時代にかけての作品である 日月山水図は特に好きだ 金剛寺
の日月山水はダイナミックで立派な作品である 加山先生のアトリエの壁に複製が貼ってあったので見慣れた絵であるが 私は上の日月山水が好きだ 室町時代の屛風絵には好きなものが沢山ある 私の日本画の原典のような気がする
多摩美に入学して二年も経たないうちに学園紛争のために大学は封鎖され 私はいきなり行き場のない 何者だか解らない状態になった 寺山修司とジョーンバエズが入り乱れたような フェリーニ3本立ての映画館に深夜まで入り浸るような時代 思い出すのもおぞましい青春であった いつまでたっても再開しない大学に失望し 日本画を描きたいという思いまで消えた
私はその間に 家を出て前本と暮らしていた 駆け落ちとはほど遠いやり切れない思い
を抱えたままの投げやりな毎日だった 退廃的な日々を過ごす私達を 何かと案じて加山先生が 何回か訪ねて下さった テレビも冷蔵庫もない 殺風景な米軍の払い下げ住宅で先生に紅茶を差し上げたことを思い出す 先生はその紅茶茶碗を綺麗ねと褒め まずそうにお茶を飲んで帰って行かれた
ある日先生から電話があって いつになくかしこまった口調で ゆふさんに折り入って頼みたいことがあるとおっしゃって しばらく黙って それから三回だけモデルをしてくれないかと丁寧に頼まれた 私はすぐには答えなかった 何でだろうと思った その当時先生はセンセーショナルな人物を発表していらして そのモデルは皆スタイルのよい現代的な美人であった 多少パセティックな感じで 一見して又造好みといった風の 人ばかりだ 私は先生のモデルとはタイプが違いすぎる
先生も黙って 電話はずっと沈黙した 長い沈黙に私は先生が相当困っておられるように感じた 本当に私でいいのか 半信半疑のまま分かりましたと答えた
初めて先生のアトリエにモデルとして伺ったのが 12月16日なのだ この日は特別な日である 時代思潮に流され 志を失っていた私を再び日本画に連れ戻しに来た救世主のような存在として先生を想い 初心に帰る為の記念日なのだ
2016年 12月16日 朝の南アルプス
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