九月になった。よく晴れた秋空に乾いた風の吹き抜ける朝 前本は小海線に乗って八千穂に出掛けた。家から歩いても行けるJR小海線の 甲斐小泉駅から一時間ほどで八千穂に到着する。
甲斐小泉駅には懐かしい電話ボックスがある。駅員の居ない駅は夏の間以外いつ行っても人影がない。極端に遅い一両編成の電車は一時間に一本あるかないかで 夜九時半頃には終電が行ってしまう。
庭仕事をししていると 小海線の汽笛が聞こえてくる。家の庭から真っ直ぐに下った辺りで汽笛を鳴らすのは 線路に鹿が入って来ないように警告しているのだろうか。子供の頃 庭で聞いた井の頭線とそっくりなガタンガターンと走り去ってゆく電車の音はのんびりとして心地良い。
古びた小さな駅
まるでおもちゃの様。扉の開閉も手動である。自分で開けて乗り込む。
南アルプスを見ながら走ってゆく。
八千穂の駅に到着する。
知り合いの方の個展会場を訪れた帰り 駅に隣接する奥村土牛記念美術館を訪れた。
土牛は 昭和二十二年から四年間 黒澤家の離れに疎開したことがあった。平成二年 この地に記念美術館が開館した。その時 土牛は百一才である。五月の開館から四か月後の九月 百一才七か月で土牛は逝去する。
記念美術館の開館にあたり百一才の土牛が寄せた「ごあいさつ」には『清らかで美しい山や川、村の方々の温かい情にふれながら浅間・八ヶ岳・松原湖・川上・野辺山・清里などずいぶん写生をしたものです。今その時の思い出が次々と心に浮び当時をしのぶと感無量です。其の時写生した幾点かを選んで美術館の作品の中に加えて戴いたのである。』と記してある。
美術館には素描150点余りが収蔵されている。大正時代末期の格調高い建物に並べられた土牛の素描は 言うまでもなく誰もが心の糧とすべき最高峰のものであるがこの清らかな自然の中でそれらを鑑賞出来ることはこの上ない幸せと言えよう。
これが私へのお土産
私が山種美術館で初めて土牛の作品を観たのは五十年近くも前になろうか。以来土牛は私の神様となった。画集を集め 掲載誌を切り抜き 展覧会にゆき 私の眼中には土牛しかなかった。
初めて観た土牛の作品は私の心を捉えて離さない。それは直接心に訴えかけた。私の言いたい事全てが描かれてあった。理屈抜きに共感した。
美大に入った頃 世の中はシュール流行りで先輩も先生もシュールシュールと言っては訳の分からない世界をでっち上げていた。私にこんなことは出来ないと思った。
超現実主義という事であろうが なんの意味も感じられなかった私にとって土牛の絵は救いであった。理屈っぽさのみじんもない清らかな画面。何より精神性の深さに打たれた。洗練の極みをみせる線と色彩。
美大に入って私は 初めてリアリティという言葉を聞いた。「この絵にはリアリティがない」と教授たちは言い もっとリアリティを追及しなくてはいけないと教えた。
一体リアリティとは何なのか。写真を見て本物そっくりに描くスーパーリアリズムという分野も盛んに取り上げられて 本物みたいだ凄いねと皆が感心する。
当たり前の事だが 色も形も本物そっくりに描けたらリアリティがあるとは言えぬ。
リアリティとは「真実」であるのだ。絵には真実がなくてはならない。では 真実とは何か。それは作者の心の奥深く ものすごく奥深くにあるものであってそれをこそ追及することのできるものが本物の絵描きであろう。ちょっとした思いつきを誇張してどうだ凄いだろうと言っているような絵をインパクトがあると称賛するのは悪い癖だ。そんな事ではない。もっと人間の根源にある感覚を追い求めなくてはならない。何がその作家の真実なのか。真実とは 絵に対する 誠意 良心 のようなものであろうか。
私にとってその答えは土牛の絵の中にある。私の願いは 世の流行や風潮には関係の無いところで自らを探り 深く感じながら描いてゆきたいという事だ。静かな所で心を澄まし 思う存分ゆっくりと追い求めたい。そんな願いを支え続けてくれたのはいつも土牛の絵であった。
常に考え続けている土牛の言葉「花の気持ちを描く」は 花のスケッチをしながらそのつど答えが解かりかけては遠のき あれも違うこれも違うと思いを巡らして来た。その年齢なりの解り方をして来た。今の私はこう解釈している 自分の気持ちではなく 花の気持ちを描くのだと。そして花の形や色といった目に見える表層ではない その奥にあって目には見えないものを描けと言う事なのだろうか。生涯の課題である。
年を取って 自分が自分がとあさましく自分をだすのが嫌になった。絵に自分らしさを出す事など考えなくなった。どうやっても自分は出てしまうであろう。個性だのインパクトだのと小細工をしたところで一体それが如何ほどのものか。非常につまらぬ事に思える。
赤い水引草
秋丁子
野菊
浅黄斑の大好きな男郎花
白の水引草
そして秋海棠
九月の八ヶ岳はいつものように静かだ
前本ゆふ
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