第三十四章 「あじさい公園から」2019・7

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                                                                   あじさい公園から」 15号F 

 

 

 

 

 

 

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ことしは6月7日に梅雨入りした。このひと月ほどの間 晴れた日は数日で 霧は昼夜を問わず森を覆い 墨絵の中に居るようだ。寒い。そんな陽気でも山の花々は鮮やかな姿をみせてくれる。しもつけそうとオダマキの 小雨の中で見せる淡いコントラスト。日本の国はこんな所だといって良い。ここへ烏揚羽が飛んで来れば 日本画になる。前本は上手く描くだろう。私の薔薇を見てもなんら興味を示さない前本は 「やっぱり薔薇は外国の色だ」と言う。私はそんな事は無いと思うが 言っても仕方ない。私は薔薇を日本画で描く事が出来る。黙ってはいるが 心の中ではそう言う。薔薇は私にとってかけがえのない家族である。長い年月を共に暮らした。葉山から一緒にこの地へ移った。初めて私のもとへ来た時のこと 病気になった時のこと 枯れそうになって復活した時の喜びを どの木の事も覚えている。今では大きな樹になって毎年花を咲かせ 新しい葉を茂らせ 毎日を共に暮らしている。そんな薔薇たちを私は描けない訳がない。

 

 

 

 

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多摩美へ入って 初めて耳にした印象的な言葉がある。「観念的」。教授達はのべつ幕無しにそう言った。高校を卒業して間もない私にとって それまでの人生で聞いたことも使った事もない言葉であった。それは日常生活では必要のない言葉である。「この子の絵は観念的過ぎる」「観念的なデッサンをするな」「観念的な構図」「観念的な発想」「観念的なフォルム」「観念先行型の作品」「観念第一の都会のインテリ」「観念的空想」最後には何が何だか判らなくなるくらい観念的を連発する。そのうち私はそれがよくよく解るようになった。絵を描く時に 観念は罪悪だとまで思う様になった。

「観念的 要するに頭でっかちなんだ」「人間の頭で考えられる範囲など大した事では無いと思いなさい」批評会で三人の教授達の言った言葉は身に染みた。 

 

 

 

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頭の中でだけ考えて描いた絵はつまらない。写真を見て描いた絵もつまらない。絵はそれ程薄っぺらなものでも 安っぽいものでも無い。上っ面だけを写す写実の何とも味気なく 虚しいことか。写生というのは 生を写すものである。


  

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つくりごとに満ち溢れた世の中 虚偽。自然は嘘をつかない。自然界に虚偽というものは存在しない。この花がいつ私に嘘をついたと言うのだ。私はそんな花達に噓をつくことは出来ない。誠実に付き合ってゆきたいのだ。その事で私は救われる。

 

 

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普遍的な美しさを追い求めたい。いつどんな時代にも 誰もが感じることの出来る美を見つける為に生きている。それを教えてくれるのは自然だけである。観念を捨て自然にひれ伏し 謙虚にそれを見尽くしたい。子規のように。

 

 

 

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   テラスに薔薇たちを飾る 私の夏が始まる。私は心からあなた達が好きだ。

 

 

 

 

 

 

                 ☆彡