「椿の海景」
新しい年になった。葉山に居た頃は 新年の海を見にゆくのが楽しみだった。茶屋の見える岬や 御用邸の脇を抜けて眼前に開ける冬の海は静かで麗らかであった。
あの頃私は家から海沿いの国道までを 北風に逆らいながら歩いて居た。それが心地よかった。海風は北風でありながら親切な暖かさがあって 私に向かって絶えず話しかけた。それまでの人生を反芻しながら 新しい年は一体どのようになるのだろうと思いながら歩く若かった私を思い出す。
ここへ来てからは新年になっても 窓から雪景色を眺めるだけである。今年は雪は積もらない。朝日が当たれば融けてしまう淡雪が三日の夜半過ぎから降ったきりで概ね暖かい日が続いている。
年をとる毎に寒いのが嫌になる。葉山の海が懐かしい。あの頃の事は夢の中出来事のように思われる。所詮 私は何もかもが夢のように思える質なのだ。色即是空なのだ。何もかも実体などない。
実体の無い所で生きている。それは生かされているだけであって 偶然にもこの世に生まれてきただけの事である。
冬枯れの木立 夕焼け。私の頭の中は空っぽになってこの世の景色の中に吸い込まれて何処かへ行ってしまう。
以前 40代の半ば 私は個展をしたり本を出したりしたせいで何度かインタビューを受けることがあった。「人生を目的を持って生きる」と言うテーマに沿って色々と質問を受けたことがあった。
土台 私は目的を持っていないのだ。絵を描いて個展を開いたり モデルのことを先生との共著という形で出版したりする人は 如何にも自分の意志で道を切り拓いてきたのだと思われたのだろう。
はっきりとさせておくが 前本利彦と駆け落ちしたのも 先生のモデルになったのも画文集を出したのも 全て私の遺志ではない。偶然なのだ。その都度 偶然と偶然が重なり合った結果であった。私は どうしてもそうしたかった訳ではない。
何とも無責任に聞こえるだろうか。私は偶然出会った出来事を自らの 考え得るありとあらゆる方法で全力で切り抜けて来ただけなのだ。勿論 やりたく無いことはしなかった。
私の出会った偶然は 過酷であった。常に四面楚歌であり 誰にどんな非難を受けても甘んじて受けなければならなかった。そうです私のしていることは決して褒められるようなことではございません。といつも自戒した。
しかしながら ではどうすれば良いと言うのか。わが身に起こる偶然 運命 これからから逃げずに孤軍奮闘する事しか私は出来なかった。
世間体も何もない。私は何もかも捨てて闘った。そうして難題を乗り越える度 信念が生じた。自分を信じることが出来るようになる。つまり自信がついた。
北風に逆らいながら歩くことが 私の波長と同調しそれを心地良いと感じるようになった。
然し 今は少し違う。人生の幸せとは 自慢出来るものを持たない事だと思う。自分を信じることは必要だが それは当たり前の事であって自慢すべきこととは違う。今の私は 自慢出来るようなものを 何一つ持っていない。
物質 つまり自慢の家 自慢の車 自慢の衣服 自慢の宝石 等々・・・ 又は 内面的なこと つまり 私はまだまだ未熟な人間であり 修行も足りず 絵も下手だ。上手に出来ることは何一つない上 容姿などに至っては衰えるばかりである。自慢の息子や娘がいるわけではない。私は 親兄弟はおろか子も孫も居ない。拾った野良猫と駄犬 年老いて「いつまで絵を描を描いて行けるのかね」と言う貧乏絵描きの夫と細々と暮らしている。
過去の事は夢の中出来事であり 先の事は全く分からない。今できることに集中して 全力を尽くすしかない。
幸せとは 自慢出来るもの 自慢出来ることを持たないこと。淡々と 今出来ることに全力で取り組むことだけを考えていれば良い。人は 自慢できるものに寄りかかって生きる事が好きである。そのために 自慢できるものを求め 手に入れることに懸命になる。しかし それを失った時 寄りかかるものを失い不幸になる。幸せとは真に自立した人になることであると私は思う。何にも寄りかかることのない者を自立した人と言う
そして一番大切なのは 過去の事を思い煩ったり 先の事を案じたりしない事である。
現在の事を 懸命にしていればよいのだ。
懸命に全力で生きて来て なにもかもそれで良かったのだ と思う事である。
いろいろなことに遭遇して 右往左往して
それで 良かったのだ
自慢出来る人生でなくてよかったのだ
自然の景色はそんな私にも 微笑む
愛犬は そんな私を好いてくれる
今年も 只々 生きてゆきたい
⚘