第二十四章 「沙羅」 2018・7

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                                  円窓「沙羅」

 

 

祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす

 

沙羅 夏椿とも言う。何故か心惹かれるこの花が咲いて 夏が来た事を知る。小さな花で あっさりと散ってしまう。平家物語の冒頭の一節に相応しい趣き深い 静かな木の花である。

 

夏 一番好きな季節 大好きな夏ではあるが 終戦記念日が近づくと 祖母の戦争の話が甦り 空の青さにつれて胸の奥が重くなる。

 

私の幼い頃 日本は至る所に戦争の影を残していた。西荻窪の駅前で輪タクを待つ祖母と私のすぐ横で 傷痍軍人と呼ばれた男の人が鍵型の義手でアコーディオンを弾いていた。へこんだブリキのお椀には少しのお金が入っていて 祖母の渡すお金をその中に置いてくる事があった。どの方も 何度も何度も深々と頭を下げる その哀切を極めた光景が 夏空が深まるにつれありありと甦る。ベートーヴェンピアノソナタ 第3番。学徒として出陣し もぬけの殻となって戦地から戻った叔父が 毎日毎日聴いていたこの曲が 夏空を見上げると降ってくる。泣くことも笑うこともしない叔父の横顔。人が諦め切った時の声はこんなものなのか 淡々と戦争の話をする祖母の声が幼い私をさいなみ 目を閉じると現れる数々の情景に眠れぬ夜を過ごした。今でも それを言葉に出来ない。自らの言葉が そのやり切れない状況を再び甦らせる事に耐えられない。夏雲の合間から祖母の声が聞こえる。夏は死者の戻る季節である。

 

 

 

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アオスジアゲハがやって来た。私はようこそと言って歓迎する。今年はとても暑い。 庭の寒暖計が40℃になった。こんな事は勿論初めてである。流石に暑かったが 暑い夏は嫌いではない。私はエアコンが苦手である。葉山の夏もエアコンは要らなかったし 車のエアコンは未だに壊れたままで 窓を開けた車で夏の中を走りすぎるのは愉快だ。ここではエアコンなど絶対に要らない。天国だ!どんなに暑い日も朝晩は涼しい。

 

 

 

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猛暑 台風 そしてまた猛暑 今年の7月は随分長かった。これからが本当の夏だというのに。

        真紅の薔薇が咲いた。遠くから花火が聞こえる。

 

 

 

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               山百合の茎の細さ 

 

 

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              深山オダマキの清楚さ

 

いずれも都会から来た人には理解できない美しさの様だ。山百合が花屋の園芸種に比べて茎が細くて貧相だと言い オダマキは色が薄くてつまらない雑草だと言う。赤いバラばかりを誉める。一体どうなっているのだろうか。何時から日本人はこんなに派手なものばかりを追い求めるようになったのか。

日本人独特の美意識に 抑制の美がある。静を重んじ 動を表に出さない。大きな動きを抑制することで深さを表現して来た。表面の派手さを嫌い 内面の重厚さを大切にして来た。古典芸能と言われる文化にはその片鱗が僅かではあるが残っている。日本画には そう言った美意識が残っているとは言い難い。

 

 

 

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日本は戦争に負けた。8月15日は終戦記念日ではなく 敗戦の日である。現在の日本はこの敗戦をきっかけに作られてきた国ではないだろうか。それまでの幾多の戦争を 神風が吹いて勝利して来たと勘違いしたニッポンは 冷静に考えれば勝てるはずの無い大戦に 当然の事ながら負けた。そして敗戦後遺症をいまだに引きずっている国なのだ。

 

戦争に負けたのは 精神の重厚さだとか 格調高い崇光な教えに盲目的に従い 禁欲的に生きてきた事にあると猛省し 戦後はアメリカのの真似をして自由に生きなくてはならないと考えるようになった。極端すぎるのだ。戦争に負けたのは 莫迦気たおごりがあったからで 問題は極東の島国が世間知らずであったという事なのだ。それまで培ってきた美意識や文化の根幹まで捨て去ることは無かったのだ。もっと落ち着いて考えられるほど余裕もなく 敗戦の衝撃でパニックを起こしたとしか思えない。世間知らずの幼稚な国。

 

 

 

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私は東京生まれの東京育ちであり 戦後の復興期のTOKYOをいやというほど実感した。若気の至りで時代思潮に飲み込まれ 日本橋が下に隠された首都高の渋滞の中をワーゲンで走り回り アメリカンファーマシィや 出来立てのソニービルに入り浸っていた。加山先生の仕事をしていた頃がバブルの頂点で これ以上は無いほどの狂騒を目の当たりにした。日本が経済にしか目を向けなくなって 日本画が投機の対象となった時代である。戦争もクレイジーだが 戦後もクレイジーそのものであった。 加山先生が 「アメリカに追いつけ 追い越せが僕らの合言葉だった」と言ってらした。パワー全開で日本人は突っ走った。経済大国と呼ばれるようになった。良く頑張りましたね といったところだろうか。吉行淳之介が晩年 「短小軽薄」は言い過ぎだった こんな風になるなんて・・と自らの浅慮を認め 苦笑交じりに語っていた。確かに 無責任・短・小・軽・薄 ・が世の中を席巻した。重くて厚みのあるもの 深くて理解困難なもの 硬くて咀嚼するのに手間ひまかかる文化は衰退した。お軽くて 楽しくて 早い 安い 便利な国ニッポン。

 

 

 

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 真面目に藝術の話などしようものなら まあそう固い事言わなくてもと煙たがられる時代である。全て合理的にわりきってしまうのがカッコイイんですとテレビが言う。藝術も 文化も 文学も詩もあったものではない。私は 莫迦莫迦しくなったのだ。戦前も 戦後も 同様に常道を逸している。戦前は行き過ぎた精神主義 戦後は根幹の揺らいだ上に築いた表面的な自由。夥しい数のスイーツとゴミかと見まがうばかりの大量の衣料品 異国の海を帯になって漂流する日本のプラスチックごみ スマホにしがみつくだけの人生。何という虚しさであろうか。欲望が存在するだけの空虚な都市TOKYO。私は東京を離れ残り少ない人生を みんなの嫌いな格調高い 重厚な ノーブルで深い 日本画の道を歩んで行く。

 

 

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                 古径の阿弥陀堂

 

 

「私は 広く行かうという気が だんだん無くなって行って 狭くてもいいから深く行  きたいと思うようになっているのである」 48歳の古径の言葉である。 

 

 

 

 

          

 

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