第二十八章 「静日」 2018・12・25

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                            「静日」 91.0×72.7

 

前本の作品集は貸出中である為 今回は私の作品である。残り僅かとなった2018年は戌年である。私は人間の友達より 犬の友達の方がはるかに多い。この絵のチャイという犬とは格別長い付き合いであった。私の人生のなかでも一番波乱に満ちた時期を共にして 十八才で亡くなるまでチャイは私を支え続けた。

賢い雌犬で 何でも知っていた。私は人間の言葉を話さない者たちが好きなのだ。そうでなければ街を出てこの様な森に中には住まないであろう。一人でいることが一番好きだが 傍らに犬が居ればそれが一番である。

 

静かな日々を過ごしたい。明るい陽射しを浴びながらテラスに座り 私は私の育てた花を描きたい。犬が足元に寝そべって居る。これを平和という。

 

この絵を描いた50代の初め ようやく少し日本画が解りかけてきた。私が本格的に日本画を描き始めたのは40歳を過ぎていた。多摩美では殆ど何も習得しなかった。その後加山先生の仕事をしていたのであるが コップの水が溢れてこぼれるように日本画を描きたい気持ちがあふれてきた。私は私に戻りたかったのかもしれない。

 

絵は私の友達のようにいつもいつも私の人生と共にあった。絵さえ描いて居れば寂しいこともなかったし 悲しいことも忘れてしまった。

そんな私であるが 生活する為の仕事に追われ何度も何度も絵を描けない 所謂ブランクがある。しかしその間も心から絵が離れることは無く 私はいつも心の中に絵を描いていた。そんな私を一番理解し 「貴女もそろそろ絵が描きたいでしょう。」と新しい面相と墨 沢山の絵の具を下さり古典技法を伝授して下さったのは加山先生である。

 

そしてこの静日を描いた。これを描いて居る時 私は日本画は余韻と間であると悟った

日本文化はこの「余韻と間」で出来上がった文化ではないかと思った。日本の楽器の音色が長い間を取りながら 余韻の上に余韻を重ね いつ始まるとも終わるともなく風のように流れてゆくのを聴きながら 日本画もこれと同じであると感じた。私は何故日本画を描きたいのかが歴然と分かった。私が描きたいのは この静けさであった。

 

 

 

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テラスに出ると南アルプスの山々は雪に覆われ厳しい表情に変わっていた。近寄ることを許さない冬山は清冽な泉のようである。森も空も冬になった。もうすぐ新しい年が来る。このしめやかな季節を私は共感を持って過ごそう。幾度目かの長いブランクを経て 私は再び日本画を描くだろう。

 

 

 

 

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八ヶ岳に住んで七年近くなった。この庭を作った時ソヨゴの木を植えた。今年始めて待望の赤い実を結んだ。人生と同じである。実を結ぶには相応の時が必要であって目には見えないが着々とした準備を進めたものだけが実をつけるのであろう。庭に赤い実がある おめでたい新年を迎えよう。

 

                                  前本ゆふ

 

 

 

 

 

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