第三十五章 「卓上の夏」 2019・8

 

 

 

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                                                                                                  「卓上の夏」 10号F

 

 

 

 

 



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ほうずき市が過ぎ 七月も終わろうとする頃 ようやく梅雨が明けた。駅までの道すがら 夏の花が賑やかに咲く。色とりどりの立葵がトウモロコシ畑の横に所狭しと植えられて陽を浴びる。勢いを増した畑の作物と 無造作にゴテゴテと植えられた花々。それは綺麗な花というよりは生命そのものであって見る者の眼ではなく 心の奥深くに訴えかける力を持っている。ここへ来たばかりの頃 私はまだ都会人でその田舎臭く野暮ったい色合いに驚いた。しかし 今はそんな自分の浅はかな愚かさをはっきりと認識できるようになった。都会の花屋の洗練された花が蒼褪めて見える。

夏の夕刻はゆったりと流れる。ユッカ蘭とキンセンカを手に 黒いリボンの麦藁帽の農夫が曲がった腰でゆっくりと畑から帰る姿にわたしの眼は釘付けになる。

厳然とした実のある寡黙な横顔 永い年月を自然を相手に 泥だらけになって生きてきた男の重みが私を打つ。ぺらぺら喋る都会の男が途端に色褪せる。

ここへ来て9年目になった。私は既に都会の人では無くなった。「アート」などと云う都会のいい加減な言葉を聞くと心から嫌気がさす。前本はアートとは 人をアット言わせるだけのものだと言う。ああ くだらない くだらないにも程がある。

 

「新しいアート」などとなると最低ではないか。真に優れたものを目指すことなく 新しいことばかりを追う今の美術は 私にとっては史上最低である。新しいと言っても 結局は目新しいだけである。際物。新しいことと目新しいことの違いをきちんと認識しなくてはならない。真の新しさは常に自分の中にあって 前進する自分の事である。人に見せる為のものではない。人をアッと言わせたり 思いつく限りの目新しいものを描いたり 作ったりしたところで全く意味を無さないとは思わないか。結局は目に見える範囲のものでしかない。芸術は目に見えない精神の深さを具現化するものである。芸術は真理を探究するものである。

 

前本は「この絵は何を描こうとしたのか」と聞かれることを常々嫌がっている。テレビの美術番組も 作品にどんなことが描いてあるのかばかりを話題にする。絵を見るときは何が描かれているのかではなく どう描いてあるかを観なくてはならない。

 

どの様な作品が優れているのか。それを見分けるのは簡単な事だ。一生見続けても飽きない作品が優れた作品なのだ。飽きるばかりか 見れば見るほどその良さは増し 日々新たに心深く迫ってくる。絵だけではない どの様なものでも優れたものというのは どれ程永く傍にあっても飽きることなく その良さは増すばかりであり 愛着が深まるものである。

アートなどは一度見れば十分である。ましてやそれを自分の傍に置こうなどとはゆめゆめ思わぬ。一度見れば飽き飽きするものを そうやすやすと持ち上げるなと言いたい。

そして良い絵とは 実に淡々としてつまらぬ工夫の跡など微塵もないものである。これ見よがしな表現や技巧 てらいのない作品は平明である。一見何の工夫もなく さらっと簡単に描いたように見えるものだ。その表面だけを見て こんな絵なら自分でも描けると とんでもないことを思ってしまうような作品が 実は超優秀な作品である。簡単に描いたように見える名作は 何年もかけて写生し続けたモチーフから 数知れぬ小下図を作って推敲した挙句ようやく本画に取り掛かり 薄い絵の具を幾重にもかけて制作される。途方もない歳月と画家の崇高な精神性 深い洞察と真理に迫る力のこもった作品は表面だけしか見えない者には理解出来ない。何が描かれているかなどというような安いストーリーでは決してない。美そのものであって それはこころの極めて奥深くに迫ってくる。 

画家は常にそこを目指してはいるのだが誰も 到達することはできない。

あの土牛をして「どこまで大きく未完で終われるか」と言わしめる所以である。

御舟は「靫彦の絵を弱いというものは心が荒れている」と言った。大半の現代人は心が荒れている。ではどうしたらよいか。先ずはインスタ映えだのいいね!だのといった幼稚なことを大人はやめるべきである。他にもっとしなくてはならないことがあるはずだ。

 

  

 

 

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さて この夏前本は近くの蓮池へ通って蓮の花を描いた。 

この土地は縄文時代からあまり変わっていないのかも知れない。縄文時代の土器などが多く出土するこの辺りは 日照時間が長く災害も少ない上黒曜石が採れる。冬は寒いが狩りに必要な矢尻にする石があることは何よりだったに違いない。

長野と山梨の県境 信濃境に井戸尻考古館がある。中央線の信濃境駅は小淵沢からたった4分で 駅から考古館までは歩いて15分である。家から車で行っても20分ほどだからとても近い。ここに素朴な蓮池があって 前本は何度かスケッチに通った。考古館は土器などを並べただけの 黴臭いような古色蒼然としたところで訪れる人は殆どいない。蓮池も可愛いカエルが沢山いる田圃のような池で こちらも誰もいないことが殆どで前本がスケッチをするには格好の場所である。 

山梨側から長野に向かい 甲州街道に出る少し手前を右折すると 名もない山々が延々と続く。人も車もいない畑の中の一本道は今だに縄文時代なのだ。音の無い真夏の中を車で走るのはなんと開放的な事だろう。

 

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考古館の入口には看板も案内図もない。手前の斜面を少し下るといくつかの蓮池がある。右下に見えるのが蓮池だ

 

 

 

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お盆前に咲いた蓮の花を描き終えて 前本はへとへとに疲れて帰って来る。でも又明日も行くと云う。炎天下で数時間写生が出来るのは今のうちかもしれない。

 

 

 

 

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前本が蓮を描きに行っている間 私は庭で愉しい時を過ごす。真夏の庭は最高だ。 

男郎花が咲くと アサギマダラが食事に来る。気流に乗ってゆったりと飛んでくるこの蝶は美しく おっとりとした食事の様子は特に微笑ましい。長い時は半日以上同じ花に止まっている。どんなに近づいても飛び立つことは無い。夏を一緒に過ごせるのはとても嬉しい。意地悪な豹柄のヒョウモンチョウに追いやられるのは気の毒だ。品の無い大嫌いなヒョウモンチョウ

 

 

 

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朝霧の中で白百合が咲いて私の夏はもうすぐ終わろうとしている。短い夏。お盆が過ぎれば蝉が鳴かなくなり 朝夕の風は秋の始まりを告げる。

 

 

 

 

 

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