第三十七章 「昼の月」2019・10

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                                「昼の月」

 

 

 

 

 

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十月に入っても暖かい。こんな年は初めてだ。湿度が高く この辺りには居ない筈の蚊がいる。

赤トンボの群れが舞って 菊が咲き 森の向こうに月が掛かった。

日本画と言えば 月である。ここへ来てすぐ 前本は月を見ながら歩いて左足首をねん挫した。家の周りの道は 凍結した根雪を壊しながら進む除雪車が行ったり来たりするおかげで でこぼこなのだ。しっかりと足元を見ながら歩かなければ危ない。前本の足はなかなか治らなかった。日本画家が月に見とれて足をくじいた。如何にもの話である

しかし 前本は美しい月に見とれたわけではない。「この様な月を どう描くか やはり薄墨と金泥か 下地は摺箔か 胡粉の薄塗りでは表現しきれないだろうか 金泥を俗っぽくならずに使って 墨は青墨より茶墨がいいか 何号位に収まるか 縦長の構図は月並みになるか」などと思案していたに決まっている。

 

絵描きというのは 少なくとも私のよくよく知っている 前本利彦と加山又造に関しては ほぼ同様に 雪 月 花 を愛でるということは一切ない。常に如何に絵にするかという見方をする。冷徹そのものであって 綺麗だ美しいといったものを絵のことを忘れて楽しむ事はない。土台 楽しみといったことには無縁である。

私は 雪月花を心から好きだ。綺麗だ。しかし やはりこの美しさをどう作品にするかという事は常に考える。この私でさえ である。それは長年に渡って 日本画に関わり続けた私の人生が出来上がったと考えている。信念が生じたのである。この信念の基となったのが加山又造かもしれない。  

 

 

 

 

 

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加山先生は秋の生まれである。秋が来ると先生が懐かしくなる。どういった加減かはわからないが 私の人生を大きく左右し 知らずの内に多大な影響をもたらした加山又造若い頃は先生に影響を受けるのが嫌で 反発した。しかし この年になると 受け入れざるを得ない。思いもかけない人物から 思いもかけないものを授けられたというのが正直な所である。

 

先生とは沢山の話をした。私と先生は正反対の性格である。所が実に話が合う部分があった。私はは ケチな事 つまらない事を言う人が嫌いだった。先生も同じようなことを言った。「男女平等なんてこというような女はケチくさくて嫌だね 美意識がないんだよ」。くだらない事 幼稚な事 アカデミックな事が嫌いだった。学校で習う事をうのみにし 疑うことなくそれを励行し そこから一歩も出ることのできない事をアカデミックと言っていた。自らの力でそこから脱し 模索しながら創り上げたものが芸術であることを常に語っていた。

 

嫌なことがあると先生は「全く アカデミックなんだ 無粋なんだ 幼稚なんだよ くだらない」とうんざりした顔で言った。

 

 

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仕事を始める前に先生は「自由にやろう」と京都弁のイントネーションで言い それは私にとって 自分の力で先生に応えられるようになりなさいと言われていると感じた。

先生は若く綺麗な女の人を描く気がしないと常々言った。私にはそれが良く分かった。女が描きたいのではない 面白いモチーフとして使いたいのだ。月や花と同様にそれをどう作品にするかという事が重要なのであって そんな時「私のような美人を綺麗に描いてね」と言った気持ちを振りまく女などはうるさいだけだ。前本も同様であって 私を又は私の何かを描こうと思ったことなど一度もないだろう。では ただの造形でしかないのか というわけでは無い。画家に何かを生じさせるモチーフであることが大切なのだ。月を見た時に画家が それをどの様に自分の作品にしたらよいかと感じるのと同じである。早い話が 絵になる存在であること。

 

 

 

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加山先生は優しそうな人 前本さんは優しそうな人 と度々言われた。確かに優しそうかもしれないが 優しくはない。絵描きは優しくては務まらない。冷徹な人種である。その生涯は壮絶である。凄惨 この言葉を使うのは 過剰であるから嫌なのだが敢えて使わなくてはならない。画家の人生は凄惨である。楽しみではなく 喜びを求める故にである。

 

先生は何の楽しみも楽しまなかった。私が仕事に行くと 鵠沼のアトリエで背中を丸めていつも一人で制作していた。

私は先生がきりの良いところで振り向かれるまで待った。海岸通りのレストランの一番奥の席を予約して二人で夕食を食べる。フォアグラもキャビアも黙ってどんどん食べてデザートのタルトはテイクアウトして夜中に食べた。食事は空腹を満たし 栄養を摂取するための物であって 楽しむものでは無い。早く帰って仕事がしたい。私もそういった類である。前本も同じ様なものだ。食事はそうそうに済ませて仕事がしたいのである。前本も何の楽しみも楽しくない。絵描きは楽しみを求めていない。

 

 

 

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楽してつまらん作品を描いて金儲けしたところで 何にもならない。なんのための人生か と思っている。そういうことを考えていると人生は凄惨 つまり傍から見れば誠に痛々しいものとなる。しかし 真の喜びを得たいのだ。楽しみではなく喜びを求めて生きているのが絵描きというものだ。私は日本画の事だけに終始して 遂に古希を迎える

 

日本画の深淵といったものを知ってしまった以上 この道に邁進するしかないであろう

 

 

 

 

 

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              薄は蘇芳色の時が良い。

 

 

先生との仕事は二十年余りに渡った。次第に先生は体力が衰え スケッチの為の鉛筆を削ることも出来なくなり 私が鵠沼のアトリエを訪ねることもほとんどなくなった。「京都の寺に龍の圓窓を描いたから見においで」と先生から電話があって 夕方 海沿いの134号をボルボで走った。出来たばかりの墨絵の龍の横に二人で座ってお茶を飲んだ。先生は「ずっと綺麗にしててね」と言った。

 

その後一度もお目に掛かることなく 桜の満開になった春の日に訃報を聞いた。

 

 

 

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