第四十章 「遊蝶花」2020・2

f:id:nihonganomori:20200209193601j:plain

                               「遊蝶花」 6号

 

 



北杜市は水の町である。有名なウイスキィー ワイン 日本酒の蒸留所がそこら中にある。豊かな清水が流れる用水路もどこにでもあり その冷たい流れは恐ろしいほどの勢いである。吸い込まれるような急流に危険を感じる。

 

流れに翻弄されながら枯葉が流れて来る。あっけなく見えなくなる。私は自分の人生を見るように目を凝らし 枯葉の行方を見る。 絡んだ草に阻まれて立ち止まったり 裏を見せ 表に反って是非なく流されてゆく枯葉 それは私なのだ。大きな流れに乗ってゆっくりと流れたり 分岐した箇所で逡巡したり 流れに吞まれたりしながら私は人生を過ごしてきた。

 

与えられたものを使い切って人生を終えたいと思った若い時期もある。然し 今となっては思えば 人生はそう簡単に行くものでは無い。夢や希望はあっても実現出来る時も出来ない時もあり 大方は流れに翻弄されて流された。流される事を私は受け入れて来たのだ。

 

流されながらも これだけはしたくないと言う気持は堅く守った。人を出し抜く事 軽蔑する事 羨む事 嫉妬する事 妬む事 意地悪をする事 不正直な事 まだまだあるが これらのことをすれば 人との関わりが濃くなる。必要以上に他人との距離が近くなる。 ニアミスで自分にも墜落の危険が及ぶ。私は淡泊に生きてゆきたいのだ。日本画にこれ程惹かれるのも 日本画の天然絵の具の淡い味わいと 水に溶ける淡白な溶剤

薄淡い和紙 何をとっても淡白で必要以上干渉してこない粋さがある。

 

 

f:id:nihonganomori:20200210203121j:plain



 

 

先のブログで私は駈落ちしたといった。かなり過剰な言葉であった。あの頃 つまり私が家を出た二十歳の頃 私は両親の期待を裏切り 美大へ入学し絵を描いていた。両親は そんな私に諦めが付かなかった。美大へ通う私に折を見ては 美大の事はもう気が済んだことであろうから もう一度医大を受験しないかと持ち掛けた。父方も母方も医者の家系であった。男の子が居ないので 長女の私は家督として育てられた。男の子の着るような深緑や焦げ茶 細かい千鳥格子の黒のスーツなどを着せられ 硬い半長靴の紐をきっちり結んで学校へ通っていた。リボンの付いた赤い靴に フリルのワンピースを着た妹の手を引いて歩くと私は 長男であると言う責任を感じた。父は厳格に私を躾け 妹を人形のように可愛がった。よくあることである。

 

私はそのことで思い悩む事はなかった。妹ばかりが可愛がられるとは思わなかった。私も妹を人形のように可愛く思った。可愛い服を縫ってやったり 可愛い髪飾りを買ってやったりした。しかし 大学を選ぶ段になって私は両親を裏切った。美大へ行くと告げた私を父は なすびの蔓から胡瓜がなったようだと嘆いた。絶対に反対された。それから私と両親とは全く話をしなくなった。何とも言いようがない沈黙の日々。

 

そのような状態で家にいることはできなかった。美大はやめてもいい 自活しながら一人で暮らそうと思った。

 

 

f:id:nihonganomori:20200210203621j:plain

 

 

そんな時 私の前に現れたのは淡白で水のような前本であった。とにかく少しだけ居候させて貰おうと前本の下宿に住み着いた。前本と言う人は 結婚とか 家庭を作ると言った事に何の興味も希望も持って居なかった。私も同じ様であった。しばらく同棲した

居心地の良い生活であった。大恋愛をしたわけでもなく 淡々と絵を描いて過ごした。かなり長い間私たちは籍を入れなかった。今でも前本先生の奥様と言われるのが苦手だ

確定申告の面倒さから私は籍を入れた。前本はそんなことはどうでも良かったに違いない。私達は結婚式も挙げていない。結婚指輪も持っていない。私にとってもそんなことはどうでも良かった。

 

 

f:id:nihonganomori:20200210204838j:plain

 

 

加山先生が私の事を 規格外れと言った。高校の頃 仲良くしてくれた先生は笑いながら 北里さんは期待外れだったわと言った。私も本当だと笑った。先生は 自分の好きな事をするのが一番よと励ましてくれた。

多摩美の先輩から 道無き道を行くのはやめたほうがいいと言われた。道無き道を行く季規格外れで期待外れの私。なすびの蔓に生った胡瓜。全くその通りだ。私は大概の事を容認してしまう。それで良いのだと。人との距離を適切に保つためにはそうするに限る。そうして人から距離を置いていないと絵は描けない。

私は絵を描くことでしか生きてゆけない。私は自分を絵を描くものであると確信したのは小学校に上がる少し前の事である。おつかいに出ていた母が 近所の文房具屋で水彩絵の具のセットを買って来た。初めて見たクレヨン以外の画材に 我ながら驚くほど興奮した。これ程嬉しい贈り物は生涯を通じて無い。母は何気なく与えた絵の具セットに狂喜する娘を見て 半ば呆れた。この時 私は幼いながら 自分が絵を描くものだとはっきりと分かった。絵さえ描ければ何も要らないと思ったのを明確に 今でもその時の部屋の空気まで覚えている。

 

 

 

 

f:id:nihonganomori:20200210205625j:plain

 

 

前本がしょっちゅう言う。日本画に必要なのは芳しさだと御舟が言ったと。私は日本画が何より好きだ。芳しい 何と美しい。私の求めている全てが日本画に在る。私は両親を失望させ 道無き道を歩いた。それでもなお 私は日本画を描きたいのだ。