「聖夜」
「自己主張が一番いけない」と前本は常々言う。
自己主張 これは一体どの様なことか。
私が幼い頃 戦後間もない日本では 自分を第一に考えたり ふるまったりする事などは品の無い事だといった風潮がまだあった。奥ゆかしさ 遠慮という事がごく当たり前にあった。自己を主張する文化は日本のものではない。戦後の民主主義教育がもたらした欧米の文化である。
少なくとも 日本画には無くて良いものである。
「花の気持ちを描く」と言う土牛の言葉にが常に念頭にある。
花の表面 うわべを見るだけではなく もっと迫れという事。ふわふわと眼だけで見て花が綺麗だという所にとどまらず もっと鋭く 深く花に近づけという事。モチーフに対する解釈を深めるという事。
そして更に これは自分の気持ちではなく 花の気持ちを描くのだという思いに至る。
古来の日本には 自己を主張するどころか 自己という認識が無かったのだ。
日本画の大元である仏画は 唯仏に捧げるためだけの信仰心で描かれたものであり 無論自らのサインは無い。
静かな絵を描きたい 楽しい絵を描きたい 悲しい絵が描きたい。こんな事をいう人は頭でそう思うだけなのだ。そしてそれが自己主張だと思っている。頭で作り上げた観念で絵は描けない。血肉となり身から出たものだけがが真実である。観念で作り上げたな絵ほど不誠実なものはない。真実を描かなくて 何を描くと言うのか。
虚偽を描くなどは無意味であろう。芸術なのだ絵を描くと言う事は。
本当の静けさ 真の楽しさ悲しさとは一体何なのか。大半は言葉だけで分かっているだけだということを認識するべきである。
山本丘人を最後に 日本画に一点たりとも名作が無いのは誤った自己主張と観念や情報だけで作り上げた絵しかないからである。
安い歌謡曲のような日本画ばかりの絶望的な状況である。情けない。
自己主張などは必要ないのだ。例えば 静かな絵が描きたいなら その人自身が静かな人生を送っていなければならない。何をして楽しいと言うのかも認識せずに楽しい絵が描きたいと言って描いたところで それは静かそうに装った 又は楽しそうに装った駄作なのだ。日本画は抑制の美だと聞いて 抑制のきいたようなふりをした絵を描くなどもっての外だ。その様なふりをした そんな絵ばかりである。
これらのことを解決する唯一の手段は 虚心坦懐に素描を繰り返すことだけである。先入観もわだかまりも 下心もなく 唯描くことを繰り返し 身に染みるまで継続するしかないのである。
情報が溢れ 簡単に知りたいことを手に入れられるようになり 収集した情報だけで絵を描くことが出来る。あちらこちらから寄せ集めた情報で描かれた絵しか存在しない。
こんな状況では名作が生まれる訳がない。
名作は 切実であり 誠実に表現された自己である。自己を主張するという作為的な表現の微塵もない そのような不純な気持ちなど入りようもない切実なものである。
ゴッホの作品を観るが良い。あれ程切実ということを実感出来る絵も珍しい。ゴッホは何もかも理解されない人生の中で独り模索し その切実な気持ちを余すところなく訴えたのである。正直に生きて 誠実に自らの気持ちを持てる全ての力を注いで描いた作品は僅か10年程の間に描かれている。ピストル自殺を図ったこの作家は狂気呼ばれることもあるが 叢や糸杉に込められた切実極まりないその想い 身から絞り出された真の気持ち以外のものを感じることは出来ない。狂気どころか ゴッホほどまともな作家は居ない。
絵は軽々に描くものでは無い。繰り返し 繰り返し 地道に素描を継続し これは真に自らの身から捻出されたものか 誠実な自己であるか モチーフの気持ちを描いているか 常に自問自答し つまらぬ観念などをはねつける力のある素描が描けるようになるまで粘り強くその道をゆくしかないのである。
その道は遠く 孤独な作業が延々と続く。ごくありふれた 誠実さこそが一番大切なことなのだ。誠実さで 自己を包み隠し それでもなお 作家の身からにじみ出た切実な想いをが絶え間なく語りかけてくる日本画を目指さなくてはならない。
春の淡雪がゆっくりと風に舞っている。空は次第に桃色の雲に覆われ 私の好きな三月がやって来た。冒頭の作品は 前本がずっと昔 人形を描いた作品ばかりで個展をした時のものである。聖夜という画題であるから12月に掲載すればよいのだが 桃色の薄物を羽織った胸像が 満天の星空を背景に静かに微笑んでいるこの作品が わたしは好きだ。人形館に足しげく通って沢山の人形をスケッチしていた嬉しそうな 若き日の前本を思い出す。この時の個展の作品はどれも思いきり好きなように描けたと 前本が言う
菫はまだ咲かないが 三月は薄桃色と菫色の 優しい季節である。懐古という言葉の一番似合う月でもある。
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