「菊花俑」10号F
私の四月は 切り取られて風に運ばれ 何処かへ行ってしまった 。何があったのか定かには思い出せない。ちらちらと小雪が舞う日もあり寒さに震えていたこと 四月最後の日に茶虎が死んだこと。十八年共にした美雨はあっけなくこの世から消えた。知らぬ間に五月になっていた。雲を見るのが日課だった私は 四月の雲を一度も見なかった。
五月の雲は 春の色に変わっていた。
今 この森にやって来るのは鹿と小鳥だけである。なんと嬉しいことか。きのうは 地面を掘り返して虫を食べているアカゲラを見かけた。アカゲラは 枯木を螺旋状に回りながら登り 樹上で虫を食べるのだが 人も車も通らない森では地上に降りてご飯を食べている。手の届く距離で見るアカゲラは 驚くほど大きく立派で色鮮やかで 私はそれを畏敬の念を持って眺めた。自然の物凄さは如何に人間が非力であるかを思い知らせる。
庭にやって来る鹿達。私は この子達を撃つことはできない。
人間は自分達の欲の為だけに 鳥や獣の住処を開発と称して奪い去り 仕方なく餌を求めて人里に降りて来る者達を害獣等と呼び 駆除と称して撃ち殺しているのだ。自然に対して この様な失礼なことばかりして来た人間に 森に潜んでいたウイルスが逆襲している。ウイルスに打ち勝てば 人間は再び思い上がることは必至である。この事をきちんと考える事のできない人間を 更に強力なウイルスが森から出て 再び人間を襲うのは当然だ。欲の為だけにしか生きられない人間は 頭が悪いとしか言いようがない。
何故人間は こうまで貪欲な生き物なのか。情けなく悲しい。もっともっと美味しい物を もっと贅沢な暮らしをと欲に駆られて求め続けるだけの一生で本当に良いのか。 ほんの一ヶ月か二ヶ月の間出掛ける事が出来ないからと言って 大騒ぎする人間を森の生き物は嗤っているに違いない。莫迦莫迦しく愚かな 悲しい生き物 残念な生き物の筆頭は実は人間なのだ。
家に居られれないということは きちんとした家庭の土台を構築して来なかったからだアイロンのいらないだらしのない格好ばかりして 人の作ったご飯を買い 掃除までお金を払って人に頼む。そのお金の為に 働く。家庭を築くということを考えたことがあるのだろうか。
家庭というのは 各々がそれぞれの教養で独自に築き上げるものである。今や 教養という言葉は絶滅したのか。勉強が出来ようが 自己実現の為に仕事が出来る有能といわれる者だろうが 教養が無ければ意味がない。では教養とは何か。それを考え 自分のものとして身に付けるすべは 誰も教えてくれはしない。品性とか教養はパソコンを開いて調べて分かるものでは決してない。生きていく上で一番大切なこのようなことは自分で身に付ける以外にない。答えはない。築くのだ。自分を築いていくのが人生だ。
家庭は 例え一人で暮らしていようとも築かねばならぬ。自らの家庭をきちんと築いてあればどれだけ長期間家に居ろと言われてもそこから逃げ出そうという気にはならない
家庭でやるべき事は山ほどある。
家庭でやるべき事は殆どが 根気の要る地道な仕事であり それをしたところで誰かに褒められるものでは無い。スマホにアップした写真をいいね!と言われたいような褒められ好きの 自己顕示欲ばかりが肥大した現代人は いつどのようにして生まれたのか地味ながら一番大切なことを疎かにしてきたことを思い返すが良い。人間は人に褒められるためだけに生きているわけではない。地味で根気の要る仕事ばかりの家庭から逃げ出した者たちが 今の脆弱な表面だけの文化を作りだしたのだ。便利とは手を抜くことである。便利を追及すれば物事の神髄を失う。
家に居られない者に 日本画は絶対に描けない。日本画は 地道な下仕事がものを言う如何にも日本的な文化である。おそろしく根気が要る。表面はさらっと描いてあるように見える作品程 そこに至るまでの丁寧で気の長い仕事がそれを支え 創り出している
修行であり 気の遠くなる様な長い道のりである。
家の仕事も似たようなものである。繰り返し繰り返し磨かれた家は 風格が備わる。それは自らを磨くも同然なのだ。簡単 便利は私の一番嫌う事なのだ。私は電子レンジを持っていない。
桜が咲いた。山は花々に覆われている。菫 タンポポ 躑躅 山吹 桜の舞い散る山道音の無い春。
冒頭の作品は前本の最新作である。いつからか 前本は絵を売らず日本画を教えて生計を立てるようになった。この作品を 例えばデパートなどで展示しても 希薄な印象の
暗い絵としか観られないだろう。デパートと言うところはそういったところである。
華やかな絵しか受け付けない。銀座の画廊にしても同様である。画商に絵を渡しても前本の手にする画料は上代の五分の一ほどである。その様なことで神経をすり減らすことは無い。貧乏したってその方が良い。
歳を取って 自分らしい作品だけを残したいという思いが募った事もある。
「菊花俑」の俑は 気の遠くなる程の歳月を土の中で過ごし 墨も朱も洗練されうつくしかった。優れた骨董収集家から拝借して素描をさせて頂き 暫くの間アトリエにおいてあった。私は俑を包んであった風呂敷にも魅せられた。途轍もなく美しく上等のその縮緬の風呂敷は「お風呂敷」と呼ぶにふさわしいもので 今の日本では絶対に作ることが出来ないであろう。持ち主の美意識の高さと心映えに感じ入った。
作品の写真は前本が記録用に写したものであるからこの作品の真の良さを伝えることは出来ないが この作品を初めて見た時は 前本の描いた中で一番良いと思った。それは前本そのものであり 余すところなく内面を語っていた。こういった作品を秀作と言う
このブログの前に私は 同じタイトルで幻となった四十二章を書いた。絵画館が閉鎖になり収入の道を断たれ その窮状を訴えた。人の情けにすがることも人生にはあっていいと思った。
この分かりにくい作品を買い上げて下さる方が現れて 私達は生き延びた。玄人好みともいうべきこの作品は 「冲虚」の雅号を持つ夭折の日本画家をおじいさまに持つ方の手に渡った
何かの不思議な縁であろう。
前本の心は硝子である。疲弊して やつれ 急に歳を取った。こんな時は庭のタラの芽を天ぷらにして お塩と冷酒を出すに限る。今日 前本は春の風を受けながら「昼酒」を吞んで少し生き返った。
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