日本画の杜 第四十九章 「古樹桜花」 2021・2

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                                                                              前本利彦 「古樹桜花」  30号

 

 

新しい年を迎えた。一月も二月も私は相変らず忙しく ゆっくりと考えるいとまも無いままに過ごした。

 十二月は暖く 雪の無いお正月になるのかと思ったら 新しい年を迎える頃には雪が降り 氷点下になり 震えて暮らした。外には一歩も出られなかった。

この冬は木枯らしが吹く。連日連夜悲痛な声で森を駆け回る。何がそれ程悲しいのか。

 

お正月と言っても 私達はいつもと変わらない。門松は冥土の旅の一里塚である。めでたくもあり めでたくもなしとはよく言ったものだ。年とともにリアリティを増す言葉である。

 

 

 

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窓から見える白い森はまぶしくて 私は目を閉じる。遠くで鹿が啼く。前本が常日頃言う抑制の美とはこんな風景かも知れない。

抑制。現代では滅多に必要とされなくなった。芸術にとってこれ程重要な事は無い。

 日本画にとっては必須の条件であろう。前に押し出すことばかりを考えている現代。

 

表面事に終始する現代に このようなことばかり言っている私は もう古いのだ。年々歳々過去の人になってゆくお正月。

 



 

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日本画は抑制を大切にして来た。如何に深い内容を奥に包み隠すか。それは穢れない美そのものなのだ。

最近は 自分が雪を持ったクマザサの中の小さな草木の一つの様に感じる。辺鄙な山中で 自然ばかりを眺めて暮らしているとそんな気持ちになるものだ。

 

 

 

 

 

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都会から本当に遠く離れて 雪に降り込められ 一歩も外に出ない日が続くと 都会にいた頃の事などを思い返しては不思議な気持ちになる。都会で暮らしていた私は あれは本当に私だったのか

 

私は 東京の中でも武蔵野に近い西荻窪で生まれ育った。七十年ほど前 そこは竹藪と原っぱばかりの田舎であった。忘れな草とシロツメ草の原っぱで遊んだ。窓からは富士山が大きく見えた。夜が白むと 鳥たちがやかましいほど鳴いて目覚めた。

道路が舗装され 自動車がひっきりなしに通るようになって 私の持って生まれた性分のせいか こんなやかましい所からは何とかして離れたいと思っていた。家族の誰もが 便利で豊かな都会の生活を楽しくに送っているのに 私だけが そこからのがれる事を願っていた

 

 

 

 

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通っていた女学校は美しい藤棚があり 運動会の時分になると大きな金木犀にあふれるほど花が咲いた。オルガニストの練習するバッハがチャペルから聞こえてくる。

恵まれた環境 豊かな暮らし。 

それなのに 私だけが誰とも違うと感じずには居られなかった。やり切れない思いを抱えていた。今ならストレスフルな人生と呼ぶにふさわしいのかもしれない。しかし私達の時代にストレスという言葉は無い。何か意に染まないことがあっても 子供は大人の言うことを聞くものであり 我儘を言うものではない 我慢が足りない 忍耐しろと叱られながら育つのが子供であった。

 

群れからはぐれた鳥のような日々。絵描きが揮毫を頼まれて 「雲中一雁」と書くことがある。私も雲間に一人漂うはぐれた鳥だった。元来 絵を描く者はそういったものなのなのか。一人で 考え 一人で決める そういったことしか出来ない種類の人間なのか。

 

 

 

 

 

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冬景色の中を歩むようにして 右往左往しながら二十年近くが過ぎ 結局私は両親と訣別する覚悟で日本画の道に進んだ。祝福されることもなく 冷ややかな疎外感を感じながら摩美に通っていたある日 私の人生を決定づける出会いをした。

 

 

  

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横山操 入学当時の多摩美の教授である。新潟の医院の先代の医者と看護婦の間の不肖の子として生まれた横山は実の両親を知らない。日本画を志して川端龍子の塾で学んでいる二十歳の時に招集され 五年間戦地で戦い その後捕虜として五年間シベリアに抑留され炭鉱で石炭の採掘をした。三十歳で日本への戻るまでの十年間どれ程過酷な生活を強いられたか 私には想像出来ない。それでも「石炭を心を込めて掘った」と話していた。まさしくこれは横山操の真骨頂である。

 

私が多摩美に入った時 横山先生は上級生の受け持ちだった。加山先生とは好対照の男らしい骨格と 聡明で陰のある強面の 魅力的な先生であった。

 

夏の終わり 上野の美術館の玄関の前で偶然出会った私を 先生は少し驚きながらも満面に笑みを湛え 孫娘に語り掛けるようにこんな所へ一人で来たのかと言った。

 

美術学校の生徒が上野の美術館に1人で来るのは不思議なことではない。しかしそう言われても仕方のないほど私は幼かった。ここへ来るのさえ心配した父は 運転手付きの車で送迎してやると言って聞かなかった。白いレースのワンピースに大きな向日葵の造花をあしらった麦藁のバッグ 私はまるきりお嬢ちゃんなのだ。

 

先生と一緒に展覧会を観た。先生はどうして絵描きになろうと思ったのか 聞いてみたくなり あんまり上等な質問ではないと気後れしながら聞いた私に 先生は立ち止まり

 急に真顔になった。孫娘扱いされていた私は直立不動になった。辺りの空気が張りつめた。先生は片手をポケットに入れ 小さな石をつま先で蹴るようにして俯いた。こめかみに真面目と誠実と真剣と正直が浮かんだ。遠くに話しかけるように「何とかしなくてはいけないとね」 それは私を遠いところ 宇宙の底知れない空間に放り込むような言葉であった。

 

ご自分の人生を 敗戦国日本を そして日本画を 何とかしなくてはいけない その他諸々を何とかしなくてはいけない。

 

私は人生で初めて 大人から大人扱いされた。心底思っている真摯な 正直な気持ちを聞いた。

私も何とかしなくてはいけないのだ。

 

その後先生は 再び笑顔で気を付けて帰るように駅までの道順を丁寧に教えてくれた。運転手を待たせてあるなどとは恥ずかしくて言えなかった。。恐縮した。

私は申し訳なく 恥ずかしかった。それからの私は常に 何とかしなくてはならないと思いながら生きて来た。  

 

 

 

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横山先生はシベリアでの無理が祟り 右手が動かなくなり この作品は左手で描いた。

絶筆となったこの絵を見ると あの夏上野の美術館で偶然会った先生のあの横顔が浮かぶ。53歳で亡くなった先生の葬儀には 奥村土牛が列席した。黒紋付羽織袴の土牛は口を真一文字に閉じて 本当に立派だった。土牛は横山操を高く評価している。

当然のことだ。土牛も横山も 崇高な心を持った稀有な画家である。

 

 

 

 

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奥村土牛の 「聖牛」

ポリーニの初来日講演後 感想を聞かれた吉田秀和が 「これ以上何かお望みですか」

と答えた。土牛の作品全てに 私はそう言いたい。

 

       今年は丑年である。私は年女だ。

 

 

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