第五十六章 「暗室」2022・9

 


                                           暗室 Ⅰ

 

 

                              暗室 Ⅱ

 



 

 

 

神奈川県展で大賞になった作品である。前本32歳 42年前のことである。私達は 南林間で米軍が払い下げた借家に住んでいた。

犬小屋と変わらぬ貧しい住まいで 子供たちに絵を教えて生計を立てていた。私達の過去は惨憺たる事ばかりで 昔のことは思い出したくない。出来れば足早に遠ざかりたい。

しかし「暗室」は 嫌でも当時を余すところなく彷彿とさせるに十分な作品である。

 

前本の心の中は常に暗い部屋にあった。これ以上ないほど暗く強烈なこの作品は この時しか描くことができなかった。

しかしその後の前本の作品には 一貫してこの作品の心情が流れ続けている。作品の底に通奏低音の様に流れる 怒りと抒情。

 

静寂を最上とする日本人の美意識。前本の黒い裸婦は静寂が叫んでいる。

 

前本が日本画でしか表すことのできないと感じる美を人物に託して制作を始めたのは大学時代である。

何故人物なのか それは自画像だからかもしれない。前本の作品は全てが自画像なのだが まず手始めに人物に託すのが最良だと感じたのか。現在は人物を描かないが 花も鳥も 風景も 前本の全ての作品は自画像である。

 

心情をモチーフに託して描いている。どの作品も前本の心象風景である。言葉にできない心の内 悲しみ 寂しさ 静けさ 情感 怒りや喜び 面影 自然 祈り 自然の音気配 幻 夢  あらゆる形の無いものを描くことで表現してきた。

幽玄は 日本文化の根源である。静かで はかり知ることのできない奥深い世界。

前本は現実の世界に生きていない。非現実 幻想 空想の世界 つまり幽玄の中に漂っている。

この作品はそれを非常に端的に表現していると思う。主観的感情や内面を表現すると表現主義的になる。非常に安っぽくなる。

前本は絵が安くなるのを極端に嫌う。そうならないためのバックボーンが必要なのだ。

前本にとってそれは 仏画である。若い時から仏画に強く惹かれ かなりの影響を受けてきた。前本の作品の殆どは 仏画が下敷きになっている。

「暗室」が 感情をぶつけただけではない重みのある しっかりとした作品になっているのは仏画を描いた僧侶たちの持つ心情に匹敵する内容が感じられるからではないか。

 

 神奈川県展にはその前の年に「Fall」という作品を出品した。初めて黒い裸婦を描いた作品である。今も手元にあるのだが倉庫の奥に入れたままである。

この作品を私は 是非もう一度見たいと思う。作品写真も無く 作品の面影だけしか思い浮かばないが 私も前本も大変気にいった作品なのである。

秋の気配にふと横を向いた裸婦の座りポーズである。前本独特のドライな抒情詩が描かれている。

 

これが黒い裸婦を描いた初めての作品である。

前本は神奈川県展に出品する為の人物画を描いていた。ある日 出先から戻った私は 人物が岩黒で隈取られ 黒く塗られているのを見て素晴らしいと思った。すごく良かった。秋の気配が描かれていた。

「Fall」だった。前本は黒で隈取りした上に岩肌を塗るつもりだったと言った。

私は このまま黒のままの方が絶対に良いと言った。

 

岩肌を塗って肌色の裸婦にしてしまったら 「Fall」ではなくなる。「秋」になってしまう。私は この人物画のモデルをしたが この絵は私を描いているのではない。前本の心情を描いている。秋の気配に揺れる前本の心の自画像。

 

肌色に塗ったとたん 売れない絵描きが糟糠の妻を秋の景色を背景に描いた作品になってしまう。とんでもないことである。全くどうしようもない安い絵になる。

私は どうしても黒のままにしてほしいと思った。私は絵には 具体的な現実を描く必要は全く無いと思っている。絵というものをそのように考えている。

折角 ちゃんとした絵になったのにそれを壊すなんてと言いつのった。

 

前本は 結局黒のまま県展に出品した。「Fall」は美術奨学会賞になった。

 

「暗室 Ⅰ」 「暗室 Ⅱ」はその次の年に県展に出品した。県展事務所から電話があって大賞だと聞いた時は流石にびっくりした。

審査員の一人であった 工藤甲人が推してくれたそうだ。私は このような絵を分かってくれる大人が居ることに驚いた。受賞式で工藤甲人は 「痛いほど分かる」と声をかけてくれたそうで 初めての理解者に出会えて正しく評価されたことがその後の作家人生にとってどれ程の支えになったことか。信頼できる日本画家である工藤甲人は大切な恩人である。

 

 

 

 

 

 

 

 

大賞になった作品は少し話題になり 芸術新潮の新人紹介にこの写真が載ったりした。

32歳の前本である。

そして 初めて画商さんが家にやってきた。ソファーもテーブルも無い 満足な絨毯もない板の間に お盆にのせたお茶を出した。

黒い人物画を買ってくれる画商がいるなんて。

 

この時が 前本がプロの絵描きとして認知された瞬間である。その扉を開いたのが「暗室」であった。

 

私にとってこの作品は 痛々しい私たちの過去でもある。私は長い間見ることを封印してきた。寡黙な青年の心の内をこれ程までに突きつけたこの作品を正視出来なかった。あれから50年近くが過ぎたのだ 感慨をもって黙って見た。やはりこれは仏画だと確信した。

 

 

 

 

 

 

 

 

黒い人物から 白い人物に移行し 前本は沢山の作品を描いた。「翼」という題名のこの作品は前本も私も非常に気に入っている。前本の面目躍如たる作品だと思う。

 

そして1993年 オンワードギャラリーで開催した「ラ・モーダ」を最後に前本は人物を描かない。様式が確立したということであろうか。人物で表現しうる限りのことを描き尽くしたのだと思う。

 

 

 

 

 

                                「春」

 

 

 

                                 「装う女」



この2点の作品は いずれも四曲の屛風で金箔とプラチナのバックである。 

前本は 人物の他にも屛風を数多く描いたがこの2点が一番よくできたと言う。

満足のゆく作品は中々出来ない物であるから 数少ない会心の作ということになる。

 

 

 

富岡鉄斎の 「清娯して 性情を淘汰するの遊戯なり」という言葉が前本は自分の心情を表すにふさわしいと思っている。

絵とは何かと問われた鉄斎の応えた言葉である。

風流を楽しんで 生まれ持った気だてを研ぎ澄まし 不要なものを捨て淘汰させる遊戯であるといった意味であろう。

 

 

                                「白山」

 

人物の後に前本が生涯最後の最大の難関として取り組んでいるものの一つが風景である「白山」は精神そのものが匂い立つようで私は好きだ。具体性の無い精神といったものを描ける作家はそう多くない。

 

  

 

                                     「黒芳」

 

 

       黒牡丹の双花を描いた最新作である。前本74歳。

 

 

 

 

 

 

 

              2022年 初冬

 

 

 

 

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