第二章 夏の花籠
2012年制作 「夏の花籠」
私達が、度重なる引越しの末ようやくたどり着いた北杜市はどこからでも山が見える。その上、至る所に花が咲いている。小淵沢の駅に向かう道沿いに真っな罌粟が満開になると、六年前ここへ来た頃をなつかしく思い出す。
「夏の花籠」は、初めての夏にスケッチした花々を描いた作品である。
八月の杜
蝉の声しか聞こえない。
蓮華ショウマ
そして山百合 熱心に蜜を吸う烏揚羽
前本がスケッチしているのは朝顔
短い夏の始まりである。
2008年 制作
「卓上の夏」
2008年 制作 「残りの夏」
荘厳としか言いようの無い早朝の杜 朝日が射して百合が咲いた
ひっきりなしにやって来る揚羽
花の様子は刻々と移ろう 美しく咲いた時をのがさぬよう
朝食前から写生を始めた
底紅の木槿が咲き
夏薔薇が咲いた
白百合は木陰で見るのが美しい
満開のルドベキア 前本は今朝も写生
愛情とは何かと聞かれたら、「見ること」と答える。唯々見る。黙って見続ける。花を育てて来てそう思った。犬猫も同じように見てやることだ。
毎日毎日見続ける事。昨日とどう違うのか、何が必要なのか。何が言いたいのか。困った事は無いか。どんな事が嬉しいのか。どうして欲しいのか。黙って見ていればよく解かる。解かって来れば、適切に対処出来る。
描きたいものを見ていれば、どうしてそれを描きたいのか解かって来る。どうして美しいのか、どんな所に美しさを感じるのか。よくよく見ながら知ろうとする。
そして、美しさを表現するする為にはどこを強調し、どこを省略したら良いのか解かって来る。
絵とは、画家が「どう見たか」を記したものと言って良い。そして、その画家がどこを強調し、どこを省略しながら誠実に心情を表現しているか。
良い作品からは、そういった画家の心構えと眼差しが、ひしひしと伝わってくるものなのだ。写生をするという事は、モチーフに愛情を注ぎ続ける事だ。時にその愛情は、家族にさえ注がぬ深いものとなる。安田靭彦が「それは仕方がない」と言った。大そうな名言だと思う。仕方がない!家族は二の次だ。あっぱれではないか。
2010年 制作 「カサブランカ」
残暑お見舞い申し上げます
「夕顔」
🌻