秋になった。十月の始め 空気が冷たくなって夜の森から冬の匂いがした。今年の秋はとても寒い。寒いけれど 懐かしい冬の匂いは私の心に暖かい火を灯す。幼友達に出会ったように心躍る。季節外れの台風が去った後 富士山に初雪が降った。月末には木枯らしが吹いた。落葉の降る音で目が覚める。舞い落ちる枯葉を歩くと どんな考えも浮かばなくなる。全ての思考は自然が持ち去ってしまう。
この時季はとりわけ雲が美しい。間断なく形を変え そのどれもが綺麗に整っていることに自然のすごさを感じる。
秋晴れの日 前本は岩手県九戸の「野田村」へ旅した。親しい友人を訪ねた昨年の旅で出会った「鵜の巣断崖」から見える海の美しさが忘れられず 今年はスケッチの目的で旅に出た。
鵜の巣の海の神秘に言葉は要らない。
前本は三日間 こうしてスケッチした。
野田村は誠に美しい処である。
閑 待 月
( シズカニ ツキヲ マツ )
『 月ならで さし入る影の なきままに 暮るるうれしき 秋の山里 』
山家集に収められた 西行の歌である。月以外には秋の山里の庵をたずねるものもないので 月の光がさし入るだろうと 日の暮れるのがうれしく思われることよと歌っている。西行は平安時代の歌人で 武家の出であるが戦乱の世を儚んで二十四歳で出家した
各地を行脚して歌を読んでいる。野田村にも庵を編んで逗留したと言われている。
西行の庵跡
前本は西行の歌に心惹かれ 以前から山家集を座右の書としてきた。西行も見たであろう海を描ける幸せを思ったことだろう。前本の好きな歌を記しておこう。
『幻の夢をうつつに見る人はめをあはせでや夜をあかすらむ』
『波のうつ音をつづみにまがふれば入り日の影のうちてゆらるる』
『花と見えて風にをられてちる波のさくら貝をばよするなりけり』
『まどひきてさとりうべくもなかりつる心を知るは心なりけり』
佳き秋であった
前本ゆふ
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