「秋草と黒猫」
九月最後の日 成川美術館の個展の為に描いていた30号の新作 2点を搬入した。
疲れた。
それしか言葉が出て来ない。長い闘いであった。前本も私も放心状態になった。
疲れた。何をする気力も残っていない。七十歳を過ぎるというのは こういう事かと思った。
富士山にうっすらと初雪が降り今年の秋はいつになく寒い。何日もぼんやりした。
どうやって過ごしていたのか はっきりしない。疲れている。
とは言え もうすぐ個展が始まる。
前本は今回の個展の新作に 次のようなコメントを書いている。
『「古樹桜歌」は 山梨県にある樹齢三千年と言われている山高神代桜です。三千年をどのように捉えたら良いのか苦心しましたが 精霊化した長老を 祈るような気持ちで描きました。』
前本は四年程前から この古樹を幾度も通ってスケッチした。しかし三千年の桜の重みを充分に描くことは出来なかったと言う。無理からぬことだと思う。今回の作品が第一歩である。再び 神代桜が咲く頃に描きに行くであろう 毎年毎年。何度見ても描けないものがあることは私もよく分かっている。執念を燃やして 幾度もいくたびも 同じモチーフを見続ける事しかすべはない。個展の作品とは言え 常に完成されたものが出品できるとは限らない。
しかしながら 前本は今出来ることは全て出し尽くした。この絵を描いて5キロ近く瘦せた。
毎朝 顔を見るたびにげっそりとやつれてゆく。毎晩殆ど眠れない。元来不眠症であるが 作品に向かっている間は更に神経が尖って熟睡出来ない。当然食も細り お雛様のお道具のような小鉢に盛った ほんの僅かなおかずしか食べられない。
私は 前本を支えて来たとはゆめゆめ思わぬ。絵描きは常に独りである。又 独りでありたい者が絵を志す。私は 作家が絵に専念出来る様 協力出来る事はしたいと思っている。しかし 代わりにぐっすり眠ることも ご飯を食べたりすることもできないのである。
『「蓮池浄夏」は私の家から車で20分程のところにある 井戸尻考古館と言う縄文博物館の蓮池を描きました。夏の盛りスケッチをしていると縄文時代に戻ったような 静かな 幸福な時を過ごしました。』
この蓮池のある辺り一帯は 何時行っても誰も居ない。大通りを右折した途端 縄文時代になる。日差しも 風も 古代となり 音の無い明るい 盛夏 蓮花は咲き乱れる。
観光客が訪れるような人工的に造られた綺麗な場所ではない。雑草の中に野趣あふれる力強い蓮が 照りつける日差しに向かって無造作に咲いていて 何とも気持ちの良い所である。
私は前本を車で蓮池に送り届け 縄文時代を走り抜け 帰途に就く道すがらの夏を存分に楽しんだ。
今回の個展は 新作2点の他収蔵作品の中から 館主がどの作品を選んで並べるのか分からない。会場はどの様な雰囲気になるのであろうか。個展会場と言うのは独特なものである。作家そのものである。その時の作家の人生が見える。旧作に新作が加わり 一体どうなるのだろう。
今年は秋が深まるのが早い。朝夕は冷える。小紫式部の色づきが良いのは嬉しい。それにしても前本はやつれた。ようやく少し眠れるようになり 尖っていた神経も僅かに柔和になったようではある。それほどまでして何故 絵描きは制作を続けるのか。
どうだ上手いだろうと得意げに描く作家は まずやつれることはないだろう。絵がうまいと思っている人の絵はすぐわかる。うまいところを見せたい 見せたいと絵が言っている。
随分昔 私は初対面の女の人と銀座で待ち合わせた。その人は満艦飾になって現れた。
私は驚いていたらしい。それを察してその人が言った一言が忘れられない。「持ってるとこ見せなあかん それが人生や」と明るく笑ったその人をなるほどと思った事がある
それも人生かもしれない。
絵の場合それは無い。作家が 持ってる技術を見せなあかん 持ってる感性を見せなあかん 実物そっくりに描けてるとこ見せなあかん それが人生だ ではいけない。
絵はそんな安易なものではない。
名作と言われる作品には 命の炎が揺らめいて見える。命がけで志を遂げようとする作家の 必死さ 真剣さは 私を涙ぐませるものがある。
秋薔薇の咲く頃が好きだ。そして季節は 初秋 晩秋 初冬と移ろいゆく。前本と私の人生は すでに初冬に差し掛かった。
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