日本画の杜 第四十六章 「リリー」 2020・9

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                                                                                                               「 リリー」 15号F

 

 

 

9月になった。暑かった夏もあっけなく終わった。朝夕は火の気が恋しい。9月は加山先生の誕生月である。先生は夏が苦手でものすごく瘦せる。秋が来るのを待ちわびて早く誕生日にならないかと毎年言った。

 

秋はドーサ日和の日が多い。日本画ではドーサと呼ぶ滲み止めを引く。予めドーサを引いた ドーサ引きと生紙と言う全くドーサを引いていない紙がある。

 

どちらにしても 一回目のドーサでその作品が決まると言われる程 最初に引くドーサの重要である事は 先生から再三言われた。

 

そのドーサに最適な日を私達はドーサ日和と言った。作家が始めて刷毛を下ろすその日である。晴れて乾燥した微風のある午前中がその日である。冬の乾燥は温度が低いのでやはり秋である。

気温 湿度 風が引いたドーサの効きを左右する。

 

ドーサなど引いてあれば良い といった昨今のやり方では最後まで苦労するのは作家自身である。

 

一度目のドーサが良く効いていれば その後塗り重ねる箔や絵の具がきちんと定着するしかも塗るそばからすっすっと乾いていく。下に塗った絵の具が動いて塗り重ねることが困難な状況を 絵の具が泣くというがこうなると作家はまさに泣きたくなる。絵の具が泣くような画面を作った作家の認識不足である。

 

最初に引くドーサは なるべく早く乾かさなければ効きが悪い。もちろん自然乾燥である。

ドーサ日和とは 自然に綺麗に素早くドーサの乾く日和の事なのだ。

ドライヤーや扇風機の風で ドーサや絵の具を乾かすのはもっての外なのだ。邪道。

 

日本画と言うものはそこが一番大切と言って良い。自然に乾く迄待つことである。これは日本画の極意の一つである。

 

如何に ドーサの効いた良い下地を作れるか。

加山先生がドーサを引く時の 厳かな表情はくっきりと脳裏に焼き付いて離れない。厳格な儀式を執り行う司祭のようにこの上なく慎重に しかも熟練した技術者の軽やかで素早い均等な刷毛さばきでドーサを引く先生の手許を私は幾度見ても見飽きることはなかった。

 

 

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合理主義 この厄介なもの。手仕事の面倒さを解消する為に考案される様々な機械。私はその恩恵にあずかりながらも 日本画だけは絶対に合理主義では描けない事 手仕事の尊さ 必要性を強く感じている。

 

ドーサ日和を待ってドーサを引く。この待つという事が大切なのだ。現代人は待てない

機械の速度で物を考えるからであろう。

 

 

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乾き待ちという言葉も 日本画独特の言いまわしである。ある時 テレビの美術番組で

日本画の若手人気作家が片手に筆を持って絵を描きながら もう一方の手にドライヤーを持ち器用にーといってよいものかー作品を乾かしながら得々として制作していた。呆れた。

 

日本画の絵の具には粒子がある。この粒子が自然に整列しながら画面に定着するためにはゆっくりとした時間が必要なのだ。粒子が整列していなければ画面は破綻し 亀裂を生じる。落ち着きのない荒れた作風となる。

 

御舟は 絵の具の乾くのをじっと見ていたそうだ。それは作家が考えをめぐらし どのように描き進めて行くかを模索する時間であったはずである。土牛は乾き待ちの間 近所を散策した。袂に腕を入れ 首を伸ばしてご近所の庭から枝を出している梅に見入っている微笑ましい写真がある。

 

乾き待ちにしろ ドーサ日和にしろ 私はこの日本画のペースが性に合うのだ。そうでなければ こんな山奥の自然以外なんにもない所には住まないだろう。ここに居ると都会のガツガツした動きが ほとほと品なく見えてくるのである。

 

日本画に誠実でありたいという思いが 自然の中で日々育まれてゆくのをこの上なく有難いと感じる。私の中でずっと生き続けている先生にこう言いたい。先生お誕生日おめでとうございます。

 

      

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