第四十四章 「オランピア」2020・7

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                            オランピア」50号F

 

 

 

 

夏は夜と言う。八ヶ岳では 初夏は夕暮れである。初夏 雨上がりの夕暮れ 窓越しに鈴を振るような虫の音 ひぐらしの声 花の香りが流れてくる。甘い花の香に満ちた涼やかな夕暮れ。一日を暮らした緩やかな夕陽が森を照らす。

 冒頭の前本の作品にも 夏の夕刻の空気が漂う。曖昧で 少しの退廃を孕んだ 前本らしい夏の捉え方を感じる良い作品だと思う。

  

 

 

 

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 蝶や鳥たちが香りに誘われ 賑やかに飛び交うこの木を私は おはようの木 と名付けた。ここへ来て初めての朝 この木は枝を揺らして私におはようございますと言った。ひょろひょろの枝は少しの風で 首を振った。瘦せて虫に食われ ボロボロになった葉で 懸命に初対面の挨拶をしてくれたのだ。 

見知らぬ土地で初めて友達として迎えてくれた このみすぼらしい木を 私は懸命に再生させた。僅かな枝を残して剪定し 毎年少しづつ樹形を整えた。次の年 一枝だけに僅かな花が咲いた。私は木の花が好きだ。まさかこの木に花が咲くとは思わなかった 花数は年ごとに増え 曲がっていた主幹は真っ直ぐに起きて 倍以上の太さになった。盛んに新芽を吹きながら目に見えて成長し 今ではのびのびと枝を伸ばし 数え切れないほどの花を付けて 私を喜ばせる。

一斉に咲き出す白い花は えもいわれぬ良い匂いで 一日中森を漂う。

窓辺いっぱいに広がった枝々は少々の風で揺らぐことはなくなった。

立派になったね と私は話しかける。

 

女の人は良い匂いがして 綺麗な靴を履いて居るものです と加山先生は常々私に言った。先生が私に何を求めているか その言葉ではっきりと分かった。

良い匂いと良い音は人生に欠くべからざるものである。

 

 

 

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よい画はその周囲をよい匂いで染める とは長谷川潾二郎の言葉である。

  「よい画はその周囲をよい匂いで染める。

   よい画は絶えずよい匂いを発散する

   よい匂い、それは人間の魂の匂いだ。

   人間の美しい魂の匂い、それが人類の持つ最高の宝である。」

                     長谷川潾二郎

 

 

 

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                                                                                長谷川潾二郎 「猫」(油彩 30.9×40.9)

 

 潾二郎の中では一番有名な作品である。小さな絵であるが 物凄いリアリティである。

深い作品である。猫の柔らかい重たさ 顔の短い毛の手触り 無心に眠る猫の息づかい

全てが猫なのだ。見れば見るほど深い作品である。飼い猫のタローを描いた作品はこれ一点だけであるが 長い年月をかけて仕上げてある。猫がこのポーズをとるのは年に2回だけと潾二郎は書いている。この絵が仕上がるまでに何年費やしているのだろうか。右側の髭が無いのはタローが死んでしまったからであろうか。

 

私は潾二郎の作品のどれもが 好きだ。信頼できる作家である。

 

 

 

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「潾二郎の森」と呼んでいる森が 私たちの住まいから数分の処にある。この絵とそっくりな風景で 如何に潾二郎がしっかりとものを見る努力を怠らない作家であったかを思い知るのである。この何の変哲もない風景を作品に昇華させることの出来る作家は多くはない。嘘だと思ったら 描いてみるがいい。そう簡単にはゆかぬはずである。この作家の分厚さは 時間をかけて対象に迫る忍耐と誠実さにある。

 

 

 

 

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窓辺の風景が大好きな私は この「窓とかまきり」がとりわけ好きだ。潾二郎は油絵の作家だが 対象を陰影で捉えていない点で日本画と言っても良い。ルネッサンス以後の油彩画は概して陰影でモチーフを捉えている。

 

セザンヌゴッホも陰影で捉えてない為親近感を覚える。

 

 

 

 

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 これはゴッホの「春のヌエネンの牧師館の庭」と言う作品である。私はこの絵を大切に思っている。この静けさの中に入ってしまいたい。

「対象を見つめていると 人間の尊い知性と入れ替わる」とゴッホは言う。ゴッホの向日葵は本物の向日葵の何十倍も美しい。其の訳は この言葉が教えてくれる。

 

 

 

 

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寒い7月であった。篠突く雨に降り込められ 庭に出ることもなかった。突然激しくなった雨脚を見つめながら 物干しで雨宿りする小鳥の邪気の無い後ろ姿が見られたのは

雨のおかげである。

 

 

 

 

 

 

 

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