「蓮池浄夏」30号
今年の3月迄成川美術館の個展に出品された「蓮池浄夏」は前本らしい作品であった。前本と私は 五十年来のつきあいである。人は 五十年以上付き合っても分からない事の方が多い。この作品が何故前本らしいのか。うまく説明は出来ない。前本は常に浮遊している。漠然とした気持ちが宇宙を彷徨うように 非現実とうつつの間を往還し漂っている。私にはそれくらいしかこの人を説明することが出来ない。そこへ踏み込む気持ちは無い。それが到底不可能な事を充分に承知している。しかし これは浄夏を 蓮の花と共に漂った前本の気持のこもった作品である事が良く分かる。
6月の半ばに梅雨に入りして以来 肌寒い雨降りの日が続いている。7月に入って風鈴を吊るした。未だに夏を思わせる音は聞こえない。長く降り込められると 青空を見たくなる。
雨の中 好物の白い花の蜜を吸うアサギマダラを眺めるのは嬉しい。これ程愛らしい蝶はない。温厚な性格と 優雅な身のこなしは他の蝶とは比べ物にならない。美しい水浅黄の羽を静かに閉じたり 風に乗って舞う姿を眺めるのは 言い知れぬ喜びである。
梅雨時の楽しみは 自然が造る花壇である。雨が草木を育て 思わぬ草花が絶妙な配置で出現する。その年によってそれは様々で そして必ず美しい。
自然の声が聞こえる。耳を傾ければ どんなものでも声をかけてくるものだ。あらゆるものと交流することができるものである。
その時の事は忘れない。いつの事であったかは忘れてしまった。私はイサムノグチの作品に呼び止められた。黒御影に星が刻み込まれた大きな彫刻が私を呼んだ。あっさり通り過ぎようとした私が その前に戻ると 私の中に深い闇のある事をその彫刻は厳然と指摘した。もの心ついて以来 真の深い闇が私の中に在る事を私ははっきりと認識していた。それは事ある毎にその存在を容認するように私に迫っていた。それを誤魔化し 見て見ぬふりをした。いかにしても居座り続けるその闇を 誰にも知られたくないと思うと同時に 誰に話しても理解される類のものでは無いことも分かっていた。極めて抽象的なその闇と共生することを拒絶しながら 具体性のないものをどうにかすることが出来ないまま日を送った。
私の絵を見た加山先生は 「比類なき爽快さ 明るさ」と言う。前本も自分とは正反対だと言った。そうなのだ 私は明るく 爽快な質なのだ。絵を描けばそういった作品になる。
私は自分の中に在る闇を誰かに理解して欲しいとは思わなかった。それでも 明るく爽快なだけの絵を描き続けるのは釈然としなかった。この厄介な闇を何とかしなくてはと思うものの 如何とも難いがたいままに生きていた私は この時イサムノグチの黒御影からその答えを受け取った。
その彫刻は私の闇に呼応した。見事に共鳴し その闇が私に力を貸そうと言うのが聞こえた。黒御影とイサムノグチと私はこの時 この世ならぬ処に長い時間佇んだ。今迄敵のように扱ってきたものが 私を異なった処へ誘い しかも前に進む力を与えてくれようとは。それを受け入れて 楽になった。容認する事でこれ程心が溶けて広がるものか 私の中には力が漲り 隠蔽し 忌み嫌っていた深い闇が心をどっしりと支えてくれるのを実感した。以来 うかうかと爽快で明るい作品を描く気は起こらなかった。
勿論 明るく爽快な私の個性はそのままではあるがそれが軽々とせず どっしりとしたものとなった。確信を持って人生を歩める。その事が私にはこの上ない喜びである。
京都の美術館へイサムノグチの作品を観に行った時の満たされた一日。思いもかけない形で救われたことへの驚きと安堵。魔物が救い主になった。イサムノグチの持つ闇は私の闇と波形が同じなのか。真剣に闇と共に生き 妥協することなく自らを貫いた創造の主イサムノグチの才能と力は 私の人生を変えた。
箱根空木が梅雨空に向って咲いた。これ程地味な花は無い。薄淡い花はひっそりと半日陰に咲く。斑の入った葉は控えめである。何とも古風な木の花だが その優しさが私は好きだ。無数の花はさわさわと風に吹かれ 薄桃色の声で話しかけてくる。
今年もバラの季節になった。箱根空木が散り始めるとバラが咲き始める。今年は梅雨に入った途端だった。バラにとってこれ程不幸な年は無い。しかも大変な降りであるから私は庭へ出られない。殆ど面倒を見てやれない。蕾は球状になったまま開花せずに落ちてしまう。何ともやり切れない年であった。その代わり バラは大きな木になった。
見る度に伸長した。野生味を帯びた木々を私は窓から眺めていた。
例年に比べ花の数は大変少なかったが 私は自然に任せて見ようと思った。夏になれば
庭に出て バラ達にどうして欲しいか聞いてみよう。私はバラ達のして欲しい事を何でもしてやるつもりだ。何十年も付き合ってきた この愛しい者達を慈しむことは私の最上の喜びである。
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