日本画の杜 第二十一章 「誘蝶花」

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                                   誘蝶花

 

 

 

四月になった。小雪が降ったり 初夏のように暑かったり 目まぐるしく変わる陽気とともに春が来た。今は四月の半ばであるが この森の桜は満開で 梅も満開で 窓の外は賑やかになった。キビタキアカゲラが朝の食事にやって来る。鶯は四月三日に啼いた。

 

朝夕は花冷えで ストーブをしまうことは出来ない。相変わらず冬と同じモコモコセーターを着ている。

 

古来より 梅が咲き出してから山吹が散るまでを春と言った。山吹の蕾はまだ固い。ここでは暫く春が続く。

 

 

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山には小さな花の咲く桜があちこちに自生している。淡い色の細かい花が 下を向いて咲く。何とも言えない風情である。愛犬と共に歩く山道で 私はこの上なく美しい自然にひれ伏すのである。

 

 

 

 

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夕暮れの空は 好きな光景の一つである。私が幼い頃 昭和二十年代の武蔵野はこんな風だった。懐かしい夕暮れ。日本がしみじみとした空気に包まれていた頃。ここにはそれが残っている。ここへ来てもうすぐ七年になる。そして私達は ここで七十歳になるだろう。随分長く生きた気がする。

 

過ぎた事を思い出すのは好きではない。沢山の出来事 沢山の幸せ 沢山の不幸それら全てが今の私を形作っている。それで充分である。

運命の流れのままに生きてきた。こうなりたい こうしたい と思ったところで無駄であろう。一貫した主義主張を持って その時遭遇した現実に一生懸命取り組めば 良い流れに乗ることができる。出来れば清流に流されたい。

 

流れに逆らわず 植物のように 争わずに生きてゆきたい。果敢に闘うべき相手は自分だけなのだ。

 

 

 

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       庭に訪ねて来る小鳥たちと仲良く暮らしたい。小鳥は本当に

       可愛い。

 

 

 

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              都会が遠く感じられる。

 

 

 

 

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                                 二年前 実相寺の境内で桜売りから買った小さな

         苗が花を付けた。見上げるほどに大きくなってね。

 

 

 

                                  前本ゆふ

      

         ❀❀❀❀❀❀❀❀❀❀❀❀❀❀❀❀❀❀❀❀❀❀

 

日本画の杜 第二十章 「八千草屏風」 2018・3

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                         「八千草屏風」四曲一双 部分

 

箱根芦ノ湖成川美術館」が開館三十周年を迎えた。館主の成川さんとも三十年来お付き合いをさせて頂いた事になる。本当に長い間 お世話になった。成川美術館に収蔵されている前本の作品は百点以上になるだろう。

 

始めて成川さんを見かけたのは 銀座の画廊であった。かなり身を窶し 古びた風呂敷に包んだ作品を抱きかかえるようにして 足早に裏玄関から出て行く姿は印象的であった。画商のひとりが あれが成川實だと言った。当時 山本丘人のコレクターとして知る人ぞ知る人物だった。

 

 

 

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その成川さんから電話があったのは ちょうど三十年程前 成川美術館を設立された頃ではないだろうか。前本は外出しており 私が電話に出た。成川さんは 私達が生活のためにアルバイトで描いた湯吞みの絵が気にいったので 同じ様なのを描いてもらいたいとおっしゃった。私は あんなので宜しいのでしょうかと答えた。「万葉集」に出てくる花を十二か月 十二客の湯吞みにプリントしたおもちゃのようなものを売る会社の インチキな仕事をした。二人で手分けして六か月づつ原画を描いて微々たる報酬を得た

成川さんはそんなものをご覧になったらしい。その話は 私の不得要領な応対のせいであろうか それきりになった。成川さんは忘れていらっしゃる事であろう。

 

 

 

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その後成川さんは色々な絵を依頼して下さった。人物画を描いていた前本が 成川さんに乞われるままに植物や風景を描くようになった。

今回展示されている「八千草屏風」は四曲一双の大作である。今回の企画展には この屛風を含めて数点の作品が展示されている。

 

 

 

 

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        会場の作品解説には 次のように書かれている。

 

『右隻に春の野辺の草花を、左隻に秋の山野草を配した華やかな金屛風の大作である。その上品な空間に、画家は春秋合わせて59種もの草花を描いている。

 春の花は福寿草、土筆、蕗のとう、ナズナ、菜の花、カタクリタンポポなど何処にでもある草花と、比較的珍しい矢車草、蛍袋などがある。秋の花もドクダミやオオバコ

夕顔やエノコログ草といった草花を含んでいる一方、コスモスや萩、桔梗などの人気種で均衡を取っ手いる。色彩の取り合わせは絶妙で、花の形も変化に富む。主張が強すぎない花たちを中心とした調和がさりげなく、それでいて花の配置と造形の工夫が多彩である。野に人知れず咲く花の小宇宙を愛でるかのような視線で描かれた自然讃歌で、馥郁とした花の香りが漂ってくるような作品である。

 ひとつひとつの花の描写は、自然の草花に親しみ、現物を前にした日頃の写生の成果に他ならない。また、画家の端正な表現力と絵の具使いの秀逸さは抜きんでており、変化に富んだ緑葉の発色、輝くような花色、殊に白と緑を中心とした色彩の美しさは最上のもので、画家の真骨頂といえよう。

 古代の万葉の美の象徴として詠われた八千草が引き継がれ、その現代版として、この金屛風に結実している。美しいタイトルに相応しい夢幻の草花は、花曼荼羅の如き浄土を沃野の小径、足元に見出しているのである。』

 

 

 

 

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成川さんのおかげで前本は自分の中にあって 自分では気付かなかった沢山の宝の箱を次々と開いてきた。人は自らの持っている全てを使い切ってこの世を去る事が出来ればそれこそが人生を全うする事ではないか と私は常々思ってきた。その手助けをして下さる方が 前本の人生に長い間寄り添って下さったのは 幸甚の至りである。

 

成川さんは画家を育み 鼓舞し 七十八歳の現在も精一杯生きておられる稀有なコレクターである。私はその力量を心から讃え 感謝を申し上げたい。

 

 

     成川美術館 「開館三十周年記念展 戦後日本画の山脈 第二回」

            2018年・3月16日~7月11日

                                               9:00a.m.~5:00p.m.

 

 

 

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                                                                                                                 前本ゆふ

 

 

 

                               ❁❁❁❁❁

日本画の杜 第十九章 「雪の季節」 2018・2

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午後から「雪」の予報。雪の降る前 空は柔らかく澄んで ふんわりとする。ほんの一瞬の美。

 

 

 

 

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              雪雲が近付いている

 

 

 

 

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氷柱のある窓辺 雪の降る季節 真っ白な光に包まれた 音の無い 大きな繭になる。

 

 

 

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                  繭の中で私は昨年の素描を見直す。   

 

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昔 加山先生がこの頃の学生は写真を見て描くようになったから教えることがないと嘆いていらした。「受験以来スケッチはしてないと言われると なんかこの子に日本画教える気にならなくなる」

 

スケッチ又は 素描。見る事である。普段見ているものを 描くために見る事である。

絵を描く事は 見る事なのだ。絵は素描に始まり素描に終わる。

 

写真を見て絵を描くことが悪いとは言わない。しかし 写真を見て描く事はダントツにお手軽な方法だ。写真というのは三次元のものを 既に二次元にしてある 謂わば既に平面となったものではないか。実物を見て描くことは 自らの眼と手と心と感性と美意識をもって 三次元のモチーフを二次元に移し替えることであり これにはかなり高度な知性を要する。平面となった写真を写す事が如何に容易かということだ。

 

私は容易にできてしまう事を選ぶ気にならない。そういったことには喜びが無いからである。私は深い喜びを得るために生きている。楽しいこととは違う 生きる喜びである。

 

加山先生は写真を多用した作家である。マニアックなアルチザンであった先生はアトリエの隣りに暗室を設け カメラは何台持っていらしたか分からない。御玄関へ出てこられる先生は しばしば定着液のにおいがした。ご自分で撮った写真を焼いて 作品に使っていらした。しかし 先生は膨大な数の素描をなさっている。裸婦だけでも楽々二千枚は超えるだろう。飽くことなくスケッチした花 虫 猫 風景等々。先生は明確なコンセプトを持って 敢えて写真を使っていらした。 

 

 

 

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私は写真は使わない。それは私の絵に対する考え方による。私は見るのが好きなのだ。

見たものを写し 創って行く時の緊迫したやりとりに 他には替えがたい喜びを感じる

自分の持っている能力を全て結集しても 到底かなわないものを要求される。これ程嬉しい事があろうか。

 

 

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今度こそもっと良いのを描こう。挑戦し続けては自分の力量不足を痛感する事が嬉しい。自分の人生は今この程度なのかと思う。これから先 何処までいけるのか。

 

 

 

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いくら言葉を尽くしても表現できない自分の芯の部分。このもどかしい 空虚さが 描くことでのみ解消され満たされる。

 

 

 

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  庭に出ると どこからか花の香がする。春は近い。

 

 

 

 

                        前本ゆふ 

             

               

 

 

第十八章 「前本利彦の人物画 No.2 」 2018.1

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新年の八ヶ岳は例年より遥かに寒かった。よく晴れた日は寒さが一段と厳しい。スカートしか持っていない私がついにズボンで過ごさなくては居られなくなった。不本意極まりないが背に腹は代えられぬ。どなたにもご覧にいれたくない姿で新しい年を迎えた。

 

 

 

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                猫のひげも凍るような朝。窓外の冬木立も凍る。

 

 

 

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                                昼の月

 

 

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     薄桃色の雲

 

             冬景色は無駄のない美しさである。

 

 

 

 

さて 前回に続き前本利彦の人物画についてである。何故か私はこのテーマから逃れようとしている。それが何故か 分からないのである。私にとって心底気の重いテーマなのだ。私は過ぎ去った事を振り返らない質である。そうは言っても 懐かしく思い出すとこが全く無い訳ではない。しかし 人物画に関してはそういった甘い思い出が一切無い。前本が人物を描いていた頃 それは私たちにとって極めて苦渋に満ちた時代であった。早い話 思い出したくないのである。

 

だからといって 前本の作品を語る上で人物を抜きにすることは不可能である。いつまでもぐずぐず言っていることも出来ない。自他共に明るい私が みるみるふさぎ込んでしまうだけの深い闇を孕んだ人物画について語ることにしよう。

 

 

 

 

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三十代後半の前本 この青年が常に興味を抱いてきたモチーフが人物である。

日本画の花鳥風月に興味はなかった。そもそも 何故美大日本画科を選んだかといえば デザイン科志望だった高校三年の後半 彼はファインアートに転向しようと思った美大を受験するための研究所で付き合っていた油絵志望の友達に刺激を受けたのがその理由である。しかし受験まで半年余りで油彩科の受験に必要な石膏デッサンを勉強する事が難しく デザイン科と同様の鉛筆デッサンと水彩で受験出来る日本画科を受けることにしたのである。この様な余りにもお軽い理由で日本画科に入学した事は非常に前本らしい と私は思う。この人は いつも情緒に流れ 「なんとなく」といった理由で様々な事を決めてきた。はっきりとしたことは何も無い。いつも茫洋としているのである。

 

 

 

 

 

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                               「翼」1990年

 

若描きではないが 冒頭の作品にこれを選んだのは一番前本らしい作品だからである。

この作品に寄せて前本は次のように書いている。

 

『「ベルリン天使の詩」という映画を観ていて翼を描いてみたいと思った。「翼」の役割については観る人のイメージに委ねる。ヴェンダースはこの映画を 小津 トリュフォー タルコフスキーに捧げている。ヴェンダースを含めて想像力を啓発される作家ばかりである。』

 

貧しい青春時代私たちは映画ばかり観ていた。テレビもなくお金もなく頼るものもなく

しかしそれは全て自分たちの選んだ道の途中であることを充分承知していたのであるから やるせなかった。映画の中に逃げ込んでいたかった。ベルイマン ヴィスコンティ フェリーニ ・・・  深夜の自由が丘 横浜・・・なんと寂しい思い出であることか。

 

前本にとってはどうだったのか。楽しい思い出なのか。前本は 劇団に入って役者になろうかと思った時期もある。根っから現実味のない人である。結局 日本画の道をゆくことになったのだが芝居も日本画も不安定な点で大差はない。そんな性分が変わることは生涯無いと 私は断言する。

 

何故 花鳥風月ではなく人物を描こうと思ったのか。自らの内面を語りたかったのが大きな理由である。当時 花の綺麗さ 山の美しさに興味はなかった。そんなものを愛でている場合ではなかったのだ。心の中に鬱積してゆく曖昧な闇 それを描くことでしか表に出すことが出来なかった寡黙で内気な青年の 混沌とした日々を彷彿とさせる人物画の数々は私をふさぎ込ませるには充分過ぎる。陰鬱な青春。

 

 

 

 

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                   「目を閉じた四つの肖像Ⅰ」 1961年

 

これは前本34歳の 所謂若描きと言ってよい作品である。銀座の画廊で開催された個展で発表した四部作の内の一点だ。髪を灰色にしたり 肌を実際の色にしていないのは

これは人物像ではなく自らの内面を描いたものである事を示す為であろう。画廊主には白髪の女など描いてどうすると酷評された。画商にとって 商売にならない絵は価値が無い。人物画は売れない。青年の胸の内を語った絵を家に飾る人は居ない。

阿修羅像を思わせる肌 グレィの髪 小刀で切り出したような鋭い線 神経質な指先

どれを取ってもこの人物像は 前本の内面以外の何ものでも無い。このポーズを取って目を閉じると前本の心の中に入ってゆく。

 

                                            

 

   

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                             「窓」1984

 

38歳の時 画廊の主催する展覧会で受賞した作品。背景には葉山の海を選んだ。海の好きな私にとっては懐かしい光景である。前本は映画を撮るように作品を創る。映画の情景を表現するように描いている。人物は登場人物であり 前本の分身である。 自分の内面を語らせているのだ。はっきりとポーズを指定する。私はどのポーズにも音が無い

と感じた。

 

 

 

 

 

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                              「渚」 1985年

 

 

 

 

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                                                                                          「女人浮遊図」

 

 

 

 

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                                   「蓮玉図」

 

 

 

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                                「胡蝶蘭

 

 

 

 

 

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                              「二人」

 

 

 

 

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                              「黒と朱」

 

 

 

どの作品も前本の撮った映画のワンシーンである。登場人物に代弁させた前本の心象風景を 思い描きながら鑑賞してほしい。結局 前本の描くものは 自画像なのである。

 

 

 

 

 

 

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マンリー美術館で開催された 「日本の心」と題された展覧会のポスターである。数十人程の出品者の中から選ばれて前本の作品が使われた。題字は土牛の筆によるものだ。この時は大変嬉しかった。

 

 

 

 

この数年前本は人物を描いて居ない。人物を描く機会が再び訪れる事があるのだろうか

八ヶ岳の冬景色は そんな事は考えなくてもよいと言っている。

 

 

 

 

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                              前本ゆふ  

                  ⛄      

    

  

  

第十七章 「前本利彦の人物画  No.1」2017・12

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                          「春」屛風四曲一双 1993年

 

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                       「装う女」 屛風四曲一双 1993年

 

 

いつかは前本の人物画について書かなければならないと思っていた。あまりにも大きなテーマであるのと 満足な作品写真が手元に無い事が私の決心を鈍らせていた。

 

今年の冬は例年になく寒い。早い時期に雪が降り 風の無い事が唯一の救いであったはずの八ヶ岳南麓に北風が容赦なく吹き荒れて 氷の中に閉じ込められているのと変わらない。夕刻の富士山は桃色の雲に包まれ 薄藤色の山肌に雪がかかり  暗くなるまでの一瞬は心潤うひと時だが 終日寒い。

 

外に出る気にはならない。こんな機会に人物画について書いておこうと思った。

 

まだ美大の学生だった頃 前本は殆ど学校には来なかった。この人が同級生だと知ったのは一年生の夏休みが終わり 批評会に自画像を持って現れた時だったような気がする

北海道の湖を背にして 倦怠感に満ちたポーズで虚ろな表情の自画像はピエロの顔だった。今思えば まったく笑っちゃう若い人の絵なのだが 何故か印象深いリアリティがあった。この人のこの思いは観念ではない 本当にこういう人なのだと誰もが納得できる作品であった。先生達も同じ様に感じたようだ。

 

以来 この瘦せて透き通るように青白い青年は人物を描き続けた。誰が見ても彼の人物は どの作品もが自画像だと感じるはずだ。

 

大学を出て公募展に出品するが思ったように入選も受賞もせず 人物画などは売れなくて当たり前であるから貧困と無理解の中で描いていた黒い裸婦は怒りが内在した凄まじい作品であった。八ヶ岳に越す為に古い作品を物置から出して 数十年ぶりに見た。当時はそれが当たり前のように見ていた作品は怒りそのものが形になった 得も言われぬものだった。それは人の怒りとはこういうものと 言葉や態度を超えた切実さを持って伝えていた。凝視することのできない痛ましさを目の当たりにして前本の青春の過酷さを思った。前本はこういった作品を描いておいて良かったと言った。

 

今回掲載した作品は前本が四十代前半の作品である。この時世の中はバブル崩壊直前のクレイジーな時代であって 絵は投機の対象となった。今となれば 莫迦気た事であって なんの見識も持たない代わりにお金を持った人々が いずれ画料が上がるであろうとふれ込む画商の言うなりになって絵を買いあさった。

 

画廊は始終企画展を催しては集客に努めていた。「La Moda」はイタリアのデザイナールチアーノソプラーニのデザインした衣装をモデルに着せて描くという企画で依頼があった。冒頭の屛風二作品はその展覧会の案内状に使われた作品である。

 

 

案内状に掲載された前本の挨拶文を紹介しておく。

 

『女性のファッションを題材にした絵はかなり古くからある。人間の持つ美意識の根源に触れるものがあるからであろう。日本では浮世絵がその代表に上げられる。扨て、今回の個展では、イタリアのファッションデザイナー ルチアー・ノソプラーニとの出会いにより、彼のデザインするモードから触発されたイメージをもとに、現代の女性像を日本画で表現するという試みとなった。技術的にも思想的にも東洋と西洋を強く意識しながら仕事を進めた。その交錯した葛藤の中から何かが生まれる筈だと信じている。』

 

 

 

 

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                              「聖夜」 20号変形

 

 

 

 

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                              「黒牡丹」 30号変形

 

 

 

 

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                                     「蘭」 4号F

 

 

この展覧会には十四点ほどの作品を出品した。ソプラーニはイタリアの寒い地方の生まれだったように記憶している。丸々として良く喋る秘書の男の陰に隠れるようにして現れたソプラーニは 寡黙な大男で大型犬のように優しかった。私は彼のコスチュームを実際に手に取って見て これは前本にぴったりだと感じた。柔らかい薄物の生地と淡い色彩の柄行 春の花々を縫いつけたり黒いレース造った牡丹で衿元に飾った羽織のようなジャケットなど北国独特のメルヘンがあった。 ロマンティックでありながら現代的な叙情が感じられた。前本と共通する感覚があった。 

 

ソプラーニは展覧会のカタログに親切なコメントを寄せてくれたりしたが 程なくあっけなく亡くなってしまった。儚い夢の中の出来事のような展覧会にも想えるが 作品を見るとしっかりとした前本の情熱がこもっている。

 

 

その後も前本は次々と想いを形にするように人物画を描いた。これほど自らの感受性に素直に描かれた日本画の人物画はあまりないように思う。前本の心の内に常に在る 自分はこの様な者であり この様な事を大切に思い この様な姿勢で人生を歩んでいる といった言葉には出来なかった様々な想いを切実に 率直に表現している。 しかもそれらを 鍛錬された精度の高い技術をもって 冷静に伝え続けている。北方の人独特のクールな画風の内に込められた想いは強靭である。

 

 

 

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                               「花櫛」10号F

 

 

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                                                                                                            「熱帯魚」 100号M

 

 

 

 

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                                                                                  「クリムトの衣装」 20号P

 

 

 

     

                              前本ゆふ

                  ⚘⚘ ⚘

 

 

 

日本画の杜 第十六章 「野田村へ」 2017・10

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秋になった。十月の始め 空気が冷たくなって夜の森から冬の匂いがした。今年の秋はとても寒い。寒いけれど 懐かしい冬の匂いは私の心に暖かい火を灯す。幼友達に出会ったように心躍る。季節外れの台風が去った後 富士山に初雪が降った。月末には木枯らしが吹いた。落葉の降る音で目が覚める。舞い落ちる枯葉を歩くと どんな考えも浮かばなくなる。全ての思考は自然が持ち去ってしまう。

 

この時季はとりわけ雲が美しい。間断なく形を変え そのどれもが綺麗に整っていることに自然のすごさを感じる。

 

 

 

 

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秋晴れの日 前本は岩手県九戸の「野田村」へ旅した。親しい友人を訪ねた昨年の旅で出会った「鵜の巣断崖」から見える海の美しさが忘れられず 今年はスケッチの目的で旅に出た。

 

 

 

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            鵜の巣の海の神秘に言葉は要らない。

 

 

 

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             前本は三日間 こうしてスケッチした。

 

 

 

 

              野田村は誠に美しい処である。

 

 

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                閑 待 月

            ( シズカニ ツキヲ マツ ) 

  

   『 月ならで さし入る影の なきままに 暮るるうれしき 秋の山里 』

         

山家集に収められた 西行の歌である。月以外には秋の山里の庵をたずねるものもないので 月の光がさし入るだろうと 日の暮れるのがうれしく思われることよと歌っている。西行平安時代歌人で 武家の出であるが戦乱の世を儚んで二十四歳で出家した

各地を行脚して歌を読んでいる。野田村にも庵を編んで逗留したと言われている。

 

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                    西行の庵跡

 

前本は西行の歌に心惹かれ 以前から山家集を座右の書としてきた。西行も見たであろう海を描ける幸せを思ったことだろう。前本の好きな歌を記しておこう。

 

   『幻の夢をうつつに見る人はめをあはせでや夜をあかすらむ』

 

   『波のうつ音をつづみにまがふれば入り日の影のうちてゆらるる』

 

   『花と見えて風にをられてちる波のさくら貝をばよするなりけり』

 

           『まどひきてさとりうべくもなかりつる心を知るは心なりけり』

 

 

          

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               佳き秋であった

 

 

 

                             前本ゆふ

 

                  🌊

日本画の杜 第十五章 「八千穂へ」 2017・9

      

 

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 九月になった。よく晴れた秋空に乾いた風の吹き抜ける朝 前本は小海線に乗って八千穂に出掛けた。家から歩いても行けるJR小海線の 甲斐小泉駅から一時間ほどで八千穂に到着する。

 甲斐小泉駅には懐かしい電話ボックスがある。駅員の居ない駅は夏の間以外いつ行っても人影がない。極端に遅い一両編成の電車は一時間に一本あるかないかで 夜九時半頃には終電が行ってしまう。

 庭仕事をししていると 小海線の汽笛が聞こえてくる。家の庭から真っ直ぐに下った辺りで汽笛を鳴らすのは 線路に鹿が入って来ないように警告しているのだろうか。子供の頃 庭で聞いた井の頭線そっくりなガタンガターンと走り去ってゆく電車の音はのんびりとして心地良い。

 

 

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                    古びた小さな駅

  

     

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    まるでおもちゃの様。扉の開閉も手動である。自分で開けて乗り込む。 

     南アルプスを見ながら走ってゆく。          

 

 

 

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                   八千穂の駅に到着する。

 

 

 

 

 知り合いの方の個展会場を訪れた帰り 駅に隣接する奥村土牛記念美術館を訪れた。 

 

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 土牛は 昭和二十二年から四年間 黒澤家の離れに疎開したことがあった。平成二年 この地に記念美術館が開館した。その時 土牛は百一才である。五月の開館から四か月後の九月 百一才七か月で土牛は逝去する。

 記念美術館の開館にあたり百一才の土牛が寄せた「ごあいさつ」には『清らかで美しい山や川、村の方々の温かい情にふれながら浅間・八ヶ岳松原湖・川上・野辺山・清里などずいぶん写生をしたものです。今その時の思い出が次々と心に浮び当時をしのぶと感無量です。其の時写生した幾点かを選んで美術館の作品の中に加えて戴いたのである。』と記してある。

  美術館には素描150点余りが収蔵されている。大正時代末期の格調高い建物に並べられた土牛の素描は 言うまでもなく誰もが心の糧とすべき最高峰のものであるがこの清らかな自然の中でそれらを鑑賞出来ることはこの上ない幸せと言えよう。

 

 

 

 

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                                      これが私へのお土産

 

  私が山種美術館で初めて土牛の作品を観たのは五十年近くも前になろうか。以来土牛は私の神様となった。画集を集め 掲載誌を切り抜き 展覧会にゆき 私の眼中には土牛しかなかった。

 初めて観た土牛の作品は私の心を捉えて離さない。それは直接心に訴えかけた。私の言いたい事全てが描かれてあった。理屈抜きに共感した。

 

 美大に入った頃 世の中はシュール流行りで先輩も先生もシュールシュールと言っては訳の分からない世界をでっち上げていた。私にこんなことは出来ないと思った。

超現実主義という事であろうが なんの意味も感じられなかった私にとって土牛の絵は救いであった。理屈っぽさのみじんもない清らかな画面。何より精神性の深さに打たれた。洗練の極みをみせる線と色彩。

 

 美大に入って私は 初めてリアリティという言葉を聞いた。「この絵にはリアリティがない」と教授たちは言い もっとリアリティを追及しなくてはいけないと教えた。

 

 一体リアリティとは何なのか。写真を見て本物そっくりに描くスーパーリアリズムという分野も盛んに取り上げられて 本物みたいだ凄いねと皆が感心する。

 

 当たり前の事だが 色も形も本物そっくりに描けたらリアリティがあるとは言えぬ。

リアリティとは「真実」であるのだ。絵には真実がなくてはならない。では 真実とは何か。それは作者の心の奥深く ものすごく奥深くにあるものであってそれをこそ追及することのできるものが本物の絵描きであろう。ちょっとした思いつきを誇張してどうだ凄いだろうと言っているような絵をインパクトがあると称賛するのは悪い癖だ。そんな事ではない。もっと人間の根源にある感覚を追い求めなくてはならない。何がその作家の真実なのか。真実とは 絵に対する 誠意 良心 のようなものであろうか。

 

 私にとってその答えは土牛の絵の中にある。私の願いは 世の流行や風潮には関係の無いところで自らを探り 深く感じながら描いてゆきたいという事だ。静かな所で心を澄まし 思う存分ゆっくりと追い求めたい。そんな願いを支え続けてくれたのはいつも土牛の絵であった。

 

 常に考え続けている土牛の言葉「花の気持ちを描く」は 花のスケッチをしながらそのつど答えが解かりかけては遠のき あれも違うこれも違うと思いを巡らして来た。その年齢なりの解り方をして来た。今の私はこう解釈している 自分の気持ちではなく 花の気持ちを描くのだと。そして花の形や色といった目に見える表層ではない その奥にあって目には見えないものを描けと言う事なのだろうか。生涯の課題である。

   

 年を取って 自分が自分がとあさましく自分をだすのが嫌になった。絵に自分らしさを出す事など考えなくなった。どうやっても自分は出てしまうであろう。個性だのインパクトだのと小細工をしたところで一体それが如何ほどのものか。非常につまらぬ事に思える。

 

 

 

 

 

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                               赤い水引草

 

 

 

 

 

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                            秋丁子

 

 

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        野菊

 

 

 

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                             秋明菊

 

 

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              浅黄斑の大好きな男郎花

 

 

 

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       白の水引草

 

 

 

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                そして秋海棠

 

 

 

          九月の八ヶ岳はいつものように静かだ

 

 

 

                                前本ゆふ