第五十五章 「白山」 2022・5

                                  「白山」

 

 

五月晴れの日はほとんどなかった五月。半ばになってもまだ寒い。若葉寒というには長すぎる。八ヶ岳の気候は一体どうなったのだろう。

 

桜も咲いた 山吹も咲いた 連山の雪も溶けたのに 八ヶ岳は寒い。

小淵沢の駅まで降りると ほのぼのとした春が来ている。たまにはこんな長閑な気持ちになりたいと思いながら山道を登ってひんやりした我家に戻る。

 

 

 

 

それでも春の花は次々咲く。

今年の桜は 殊の外見事であった。美しい桜と共に暮らす幸福な日を過ごした。肌寒い日が続くので花は驚くほど長く咲き続けた。蕾の時 満開になってゆく時 散り始める時 それぞれが綺麗で 毎日が夢の様だった。この桜は私の大切な 本当に大切な存在なのだ。

 

 

 

 

去年 この桜は咲かなかった。何故だか分からない。花の咲かない木を見上げていると我知らず涙が出た。桜が咲かないことでこんなに淋しい思いをするものかと思い知った 

 

心底悲しい。私の人生も もうすぐ終わるのかもしれないと思うほどふさぎ込んだ。

悲しい春であった。

 

私の気持ちを察してか 今年は豪華な花を咲かせて励ましてくれた。その喜びは如何ばかりであったか。

 

 

 

 

 

        山吹 華鬘草 白山吹 次々咲いた










植物の放つ気に私は圧倒される。重なり合った葉や花に潜む気は私をこの世ではない処へいざなう。庭に居ると不思議な力が私に宿り 気が満ちてくる。どの枝にも どの花にも どの葉にも 美の神が宿っている。

 

私が花を描くのは 仏像を彫っているのと変わらない。祈りである。

 

この世は不条理で出来ている。否が応でも従わざるを得ない運命に翻弄され続ける。その中で 私にとって唯一の救いは絵を描くこと。自ら描いた絵に慰めをおぼえる。 

 

色々な事を見聞きし 経験した。そして思う。自らが選んだように思うことも全ては運命だったのだと。生まれること 死ぬことを自らの意志で選べないのと同様に すべての事柄はめぐりあわせである。どんなに望んでも どんなに努力を重ねても 思うようにならない。思いがけない出来事にも遭遇する。

禍福は糾える縄の如しと言うが 私の縄は禍の部分の長い縄であった。しかし 私はそれを懐かしさをもって思い起こす。

それと格闘しながら生きてきた自分の人生をである。

 

最近生きづらさという言葉を頻繫に聞く。品の無い言葉だ。思うようにならない人生をそのように言っているのか。どんな意味なのか 私には理解出来ない。

では 生き易さとはどのようなことを言いたいのか。全く解らない。

 

孤独だ 孤独だ と言う。何故だ。私には解らない。何をして孤独というのか。

 

人生とは 格闘し 不撓不屈の精神を養う処ではないのか。私はそう思う。上手くいかないと言って嘆かなくてもよい。あれこれ対処すれば良いのだ。失敗ばかりの私であるが それが経験というものであって 次の失敗を克服するための大切な糧なのだ。

糧を求めなくてはならない。次の失敗を恐れていれば糧は得られない。

 

私は天涯孤独の身の上である。両親も兄弟も亡くなり子供も孫もいない。連れ合いは居るが所謂結婚生活とは全く違う。前本も私も 夫とか妻といった関係ではない。

お互いに絵を描くことを最優先にしてきた。近づかないように暮らしてきた。絵を描くためにはそれが一番なのだ。自分の人生は 自分独りで作り上げなくては自分の絵は描けない

 

私は 多分前本も 孤独だと思ったことがない。自分に正直に生きていれば孤独にはならないはずである。孤独になるのは 損得を考えて おもねったり 噓をついたりして保身に走るからなのだ 私は損得という点から見たら 相当損ばかりしてきた。

 

高邁な 敢えて言うが 高邁な理想に向かって人生を歩く覚悟があれば孤独なはならない。高邁などというと 何を偉そうにと思われるかもしれないが 何も私が気高く生きていると言っているのではない。むしろ 私は失敗ばかりの愚かな人生を生きてきた。

しかし 人間は常に高邁な理想を持つべきだと思っている。一歩でもそれに近づく為に不撓不屈で努力してゆきたいと思う。その為に私はいつも時間が足りない。

孤独になるいとまはない。

 

私に残された人生はそう長くはない。遊び半分には過ごせないのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

薔薇が咲いた。昨年の寒さと 急速な梅雨明け その後の長雨で薔薇にとっては惨憺たる年であった。私は 薔薇達に自らの人生を重ねた。又 気を取り直して歩いてゆこうねと語りかけ 励ました。運命は受け入れる外無い。でも私は再び健気に生きてゆくしかない。

 

 

 

 

                   

                  🌹

 



 

 

 

 

 

 

第五十四章 雪舞 2022・3

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                                雪舞

 

 

 

年が明けてから三ヶ月が過ぎた。今年の冬は格別寒い。このような寒さは経験したことがない。雪は積もるほど降らないし 気温がそれほど低い訳でもない。いつもの年のように 朝早くから除雪車が走り回ることもなく 今年の冬森の中は終日静まり返っていた。

 

何故こんなに寒いのかわからない。家中のストーブを点けても部屋が温まらない。動物は寒いと眠くなるようである。冬眠。柔らかい毛布にくるまり犬と背中合わせになって 長い間眠った。

 

綺麗な雪景色の写真も撮れなかった。外にも出なかった。枯れ木の森と凍った山を窓越しに眺めながら 私達はぼんやりと過ごした。年寄りとはこんなものかと思った。

 

思えば激動の人生だった。いつもいつも何かに追われて走り回っていた。まるで蒸気機関車のようだと思った事がある。内なる何かを燃やしながら休まずに走る汽車。私はろくに眠らなかった。そのせいだ。今こんなに眠いのは。休もう こんな機会にゆっくり休んでおこう。これまで几帳面に続けてきたあらゆることを投げ出し 私は眠った。

 

前本と一緒になって半世紀の間 休日というものを知らずに働き続けた。私も前本も遊ぶことを知らない。何処かに遊びに行くことはなかった。前本は絵を描く以外の何にも興味がない。結局いつもいつも画室にいる。

 

絵を描くことはそんなに面白いか という人もいるだろう。楽しい 面白い というのとは一寸違ったものではある。好きというのが最適な表現かもしれない。好きというのは それを止めろと言われても決して止めることが出来ない事かもしれない。好きなことをしている時 自分の中のあらゆる能力が一斉に働き出す。その充実した時こそが好きなのだ。

 

総領の甚六と言われていた幼い頃 私は本当にのんびりとした子供で特に熱心にどうしたいということが無かった。勿論好きなことは今と変わらないが それをもってどうこうなりたいとも思わなかった。母は父兄会の度に もっと欲を出すような家庭教育をした方が良いと言われていたらしい。

 

本格的に私が覚醒したのは加山先生のアトリエに出向いてからである。二十代の後半だった。先生のアトリエは凄かった。ものすごい散らかり様で その中で先生は実に迫真の気迫で美を追い求めていて そんなアトリエに入っただけで私は影響を受けてしまった。

 

 

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モデルの仕事は3回だけのアルバイトだと気軽に考えていた。そんな私に「僕はね 通俗的美人画が描きたいわけじゃない 美人なんていうのはさ たまたま顔立ちやスタイルがいいとかさ たまたま若いとかさ つまらない表面ごとじゃん 美しさを自分で創り出せる能力が無ければ本当の美しさではないからね 精神とか内面とか魂とか僕が言うとさ みんなまた始まったって顔するけどさ」「僕はそれをゆふに求めたい」

 

そんなことを又造は言い出した。「僕はね 見たこともないような美しいものを描きたいのよ」「この世のものではないもの」「そんなものを創って見せてよ」「だいたいね 美しいものを作り出せる人ってそうそういるもんじゃない」「何が美しいか それが分からなければ美しいものはできないじゃん」

 

又造は 京都弁のイントネーションによる横浜弁で話し続ける。面白い やってみようと思った。私は自分で何かを作るのが好きだ。申し分ないものを創ろうとするのが何より好きだ。私は美人でもない スタイルがいい訳でもない。これはやりがいのある仕事かもしれない。。

 

それから私は本領を発揮出来るこの仕事にのめり込んだ。絵を描くように私は私を創り上げた。先生はいつも期待を寄せて下さり 発展途上の私を励ましながら二人で仕事をした。

 

「つまらないものを着るな 食べるな 聴くな 見るな 近寄るな」と先生は事あるごとに言った。「そのうちに 傷つかないダイアモンドのようになるからそしたら何をやっても良い 絵とおんなじよ 入り口は物凄く狭いけど そこに行きついて扉を開けたものだけが自由を手に入れることができるのよ だけどね そこまで行きつくのはそう簡単なことではない」

 

洗練 格調 品位を旨として磨け これが先生の教えの核なのだ。以来私は休まず鍛錬を重ね先生と共に美を造る仕事を続けた。しかし そのことを正しく理解する者は居なかった。中央公論の嶋中さんだけが真意を理解し 画文集を出版して下さったが 結局それ以外 真意を理解されることは無かった。「お二人が正眼の構えで創り上げた美の世界」と言って下さった嶋中さんに本を出して頂いた喜び それで充分だ。

 

そして又造が亡くなってから 私は一人で美を探究している。まさか自分がこのような人生を生きるとは想像だにしなかった。

思いもかけない人生ではあったが面白かった。この方に出会わなかったら どの様な人生だったかと思うこともある。想像しても仕方ない しかし二十数年にわたって先生の影響を受けながら過ごした人生とは全く別の自分になっていたのか それとも大して変わりのない自分を生きていたのか。人生は 何が起こるかわからないものだとつくづく思う。

 

 

 

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そのまま私は走り続け 先生の亡くなった76歳に近づいた。私は非力ながらできるだけのことを精一杯して来た。まだまだこれからやらなければならないことは無限にある。そして未完のままこの世を去ることになるだろう

 

つまらない話をした。極寒の森の中で独り言を言っている老婆のたわごとである。

テレビで金春の「関寺小町」を見た。百歳になった小野小町を七夕の宵に稚児が訪ねると言う演題だ。申し分のない舞台であった。老いを興味深く観た。

 

 

 

                 

 

                 🌸

 

 

 

 

 

 

 

 

第五十三章 「甲斐駒亮月」

 


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                          リトグラフ 「甲斐駒亮月」

 

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秋が来て 晩秋になり 初冬を迎えた。菊が咲き 赤とんぼが飛び交い 森は様々に色を変え 木枯らしが枯木立を残して去っていった。そんなある日 かねてから預けていた前本の作品の複製版画が出来上がった。リトグラフになった作品は驚くほど佳い。

 

 

 

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この版画は摺師の河原正弘 平川幸栄の作品である。前本と私が二十代の頃 南林間の借家で細々と開いていた児童画教室に通ってきた正弘氏とは 半世紀にわたる付き合いである。当時のまあちゃんは幼稚園児ではなかったか。

 

そのまあちゃんがまさか摺師になるとは。全く意外であった。決して絵の好きな子でも

絵の上手な子でもなかった。定規で引いたのような数学的な線で車などを描き おざなりに色を塗ってサッサと帰っていった。

 

大学で美術を学び 版画の工房を持ったと聞いた時は狐につままれたようだった。頭の良い子だったので てっきり理数系の大学に進み研究者か技術者にでもなるのかと思った。

 

数年前 まあちゃんにはこの人しか居ないと直感させる平川さんを伴い 山梨を訪ねてくれた。初めて摺った黒猫の作品を持って現れた大人のまあちゃんは どこから見ても摺師になっていた。

 

それから 何年かが過ぎ「甲斐駒亮月」はようやく完成した。私は何年かかっても良いと思っていた。世俗から離れ 心ゆくまで納得できる作品にしてほしかった。私は芸術をする者は 「売れなくてもよい」「誰にも褒められなくてよい」「貧乏でもよい」「独りになってもよい」と堂々と生きてほしいのだ。ものすごく堂々と。

 

売るために描いた原画でもなかったし 売るための仕事をしてほしくなかった。「ライフワークだと思っている」正弘氏のこの言葉は何より心強かった。

 

送られてきたリトグラフを見て 私は感無量だった。申し分ない。原画をここまで解釈してくれる摺師は他には居ない。幾度でも言う。感無量だった。

 

まあちゃんは子供の頃から賢く ノーブルで俗っぽいところが皆無だった。それを深め更に高度な技術と知性を備えてここまでになったとは。 一体彼に何があったのか。

うかうかと生きている者には決して不可能な解釈の深さ。真剣勝負であろう。これまでの人生で得た見識 経験 知識の深さ 資質の良さが反映された仕事であった。

 

作家と摺師が呼応し 原画はさらに深くふくらみ 迫真の競演になった。私はこの先

更に 作家と摺師がどの様な人生を歩み どの様な深さを備えて仕事に向かうのかを見たいと思う。

 



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     凍った月が出て冬になった。山が凍り いよいよ新しい年を迎える。

 

 

 

 

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 サインを入れる前本 来年も良い仕事ができることを祈っています。

 

 

 

 

 

 

               ⛄

日本画の杜 第五十二章 「カモメ」 2021・9

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九月になった。夏が終わった。と言っても今年は夏と呼べる日はほんの三日程だった。七月の半ばに梅雨が明けたのも束の間 再び雨ばかりで 八月の初めに晴れて ようやく夏が始まると思った途端 雨の毎日に逆戻りした。しかも寒い。朝からストーブを焚いた。西瓜をストーブの前で食べたのは初めてだ。太陽の光を忘れてしまった。真夏の陽を浴びたいと切実に思った。

 

影が出来ないほど強烈な陽射しだった葉山の夏 この絵のようにいつも凪いでいた葉山の海が懐かしい。葉山に居た二十年間は 私の人生も夏であった。今思えば 朱夏と呼ぶにふさわしい時代であった。

 

 

 

 

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久々に晴れた夕刻 こんな雲を見たのは初めてだ。何処までも続く桃色の煙はいつまでも消えなかった。おかしなことばかりの今年の夏。雨は八月いっぱい降り止まず 九月になっても豪雨と雷が続いている。十月下旬並の気温 晩夏であるはずのこの時期に初冬の寒さである。日照不足と低温でどの花もかつて見たことのないほどの不作なのだ。白百合だけがいつものように咲いた。

 

 

 

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立秋の少し前 八月の初めに三日だけ晴れて珍しく気温が高く28度になった。それまで23度前後だったので大変な暑さに感じた。沈黙していた白百合が この時とばかりに一斉に咲いた。

 

大好きな白百合 葉山から連れて来た。

せいぜい1メートル位であったのに この山が余程気に入ったのか 見上げるほどの丈になり 毎年十輪以上花を付ける。

 

 

 

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森の中に咲くユリは神々しい。又 雨が続くらしい。花が傷む前に 切って花瓶に入れ 部屋で長い間百合の香と共に暮らした。今年は雨に降り込められたので沢山の素描をした。

 

 

 

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自室で花の素描をして過ごす心休まる時間に浸った。若い時からユリは随分描いた。どの花より多く描いたのに 描けども描けども上手くならない。満足がゆかない。思うような写生は中々できないものである。

 

 

 

 

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私が美術学校を志したのは高校三年になってからだった。受験まで一年足らずであるから それは一般的にはかなり遅い。多摩美を選んだ理由は 受験科目が人物水彩画であったからなのだ。石膏デッサンや 鉛筆デッサンの静物画を受験レベルまで習う時間は無かった。

 

しかし 後になってみれば私にとってそれは幸いした。

多摩美に入ってろくな勉強も出来ないまま学生運動ロックアウトになり 二年近く正常な状態に戻らなかった大学に通う気を失った私は あれこれと迷っていた。

 

これからどうしようかという時 加山先生にモデルを頼まれた。その時はこの仕事を長く続けるつもりはなかったのだが 結局 随分長い間先生のアトリエに通って仕事に打ち込んでいた。しかし いずれは日本画を描きたかった。先生はそんな私のことを察してか 何くれとなく日本画について教えて下さった。先生と絵の話をすることは何より楽しかった。その上 様々な事を教わった。どれもこれもが有難く 私は自分が本当に絵が好きなのだとつくづく思い知った。前本との毎日も 絵の話をしている時が一番興味深く 生き生きとした時間である。自分に本当に向いていて 本当に好きなことがあるのは大変幸せなことだと思う。

 

 

 

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加山先生は 上野の美校 今の芸大で小林古径奥村土牛に師事した。土牛は古径に師事している。何と羨ましいことだろう。古径は日本画の素描を何より重んじた画家である。自分の素描ができなければ 自分の絵は描けないと言っている。

 

日本画の素描。加山先生は 私に日本画の素描を教えてくれた。私が受験のための石膏デッサンや 西洋のデッサンを習っていないことを先生はご存知で 半ば面白がって日本画の素描を教えるから習ってみないかと仰った。先生は多摩美や芸大で教授を務めていらしたが 日本画科に入学してきた教え子が受験のために 西洋のデッサンを既に身につけていて 日本画の素描を教える余地が無かったと嘆いた。 

 

立体感 遠近法といった西洋の考え方に基づくデッサン 光と影で捉える写生。こう言った物の見方は本来 日本には無かった。西洋の考え方は理論的である。それに対して 日本人は情緒的である。

 

先生が 影とは言わないで 隈と捉えていることからも分かるように それは目に見えた影ではない。心理的な隈。「影なんて言うのは光の当たり方で変化するじゃない」

 

ふーん そうなのかと私は納得した。「日本画の素描で一番大切なのは どの線が一番肝心なのかを見極めること」 日本画の素描は線描である。「今 貴女が描こうとしている花の中に この線を外してはこの花では無くなる線があるの」 「それを見つけなさい」 「目に入る あらゆる線を片端から描くものでは無い」 「写実と言って やたらと細かく描いた所で意味がない」 「欠くことのできない線をしっかりとつかまえる練習をしてごらん」 「単純化する事でモチーフはより鮮明になる」

 

柔らかい線 堅い線 鋭い線 たっぷりとした線 細く安定した線 ふっくらした線 淡い線 キツイ線 息の長い線 短い線…あらゆる線を的確に使って表現する日本画の素描の面白さを知った 鉄線描と呼ばれる一定の速度で 一定の太さで引く抑揚の無い 日本画独特の線を先生は実際に描いて見せて下さった。

 

 

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それから私は手当たり次第に花の素描をして過ごした。先生の線は鋭くクールで シャープで現代的であった。私の資質とは少し違う。私は鋭角的ではない。暖かく丸いが淡白な線が私らしい。自分の線を見つけて行く楽しさと共に その大変な道のりの遠さを感じた。

 

 

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日本画を追及していると 過去を掘り起こすことが多くなる。自然と現代の文明に批判的になる。然し 私の中には 当然のことながら現代が殆どを占めている。だからこそ時代思潮に流されることなく 過去の優れた日本文化を学んでおきたいと思っている。

 

 

 

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先生が亡くなったのは76歳 私に残された人生もそう長くはない。そろそろ玄冬であろう。だからといって何をしておかなければという気持ちも無い。唯々 淡々と日本画を描いてゆければそれが私の道であると思う。

 

 

 

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今年は既に 富士山に初冠雪が見られた。例年より一か月近く早い。雨に濡れてシュウメイギクが咲いた。 

 

 

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華虎の尾は綺麗には咲かなかった。カラスアゲハとミヤマカラスアゲハが一日だけ訪ねてきた。

 

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   来年はこぼれるように咲き乱れる華虎の尾に群がる蝶を見たいものである。

 

 

 

 

 

 

 

                   🦋

 

 

 

第五十一章 「蓮池浄夏」2021・7

 


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                            「蓮池浄夏」30号

 

 

 

 

 今年の3月迄成川美術館の個展に出品された「蓮池浄夏」は前本らしい作品であった。前本と私は 五十年来のつきあいである。人は 五十年以上付き合っても分からない事の方が多い。この作品が何故前本らしいのか。うまく説明は出来ない。前本は常に浮遊している。漠然とした気持ちが宇宙を彷徨うように 非現実とうつつの間を往還し漂っている。私にはそれくらいしかこの人を説明することが出来ない。そこへ踏み込む気持ちは無い。それが到底不可能な事を充分に承知している。しかし これは浄夏を 蓮の花と共に漂った前本の気持のこもった作品である事が良く分かる。 

 

 

 

 

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6月の半ばに梅雨に入りして以来 肌寒い雨降りの日が続いている。7月に入って風鈴を吊るした。未だに夏を思わせる音は聞こえない。長く降り込められると 青空を見たくなる。

 

 

 

 

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雨の中 好物の白い花の蜜を吸うアサギマダラを眺めるのは嬉しい。これ程愛らしい蝶はない。温厚な性格と 優雅な身のこなしは他の蝶とは比べ物にならない。美しい水浅黄の羽を静かに閉じたり 風に乗って舞う姿を眺めるのは 言い知れぬ喜びである。

 

 

 

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梅雨時の楽しみは 自然が造る花壇である。雨が草木を育て 思わぬ草花が絶妙な配置で出現する。その年によってそれは様々で そして必ず美しい。

 

 

 

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自然の声が聞こえる。耳を傾ければ どんなものでも声をかけてくるものだ。あらゆるものと交流することができるものである。

 

その時の事は忘れない。いつの事であったかは忘れてしまった。私はイサムノグチの作品に呼び止められた。黒御影に星が刻み込まれた大きな彫刻が私を呼んだ。あっさり通り過ぎようとした私が その前に戻ると 私の中に深い闇のある事をその彫刻は厳然と指摘した。もの心ついて以来 真の深い闇が私の中に在る事を私ははっきりと認識していた。それは事ある毎にその存在を容認するように私に迫っていた。それを誤魔化し 見て見ぬふりをした。いかにしても居座り続けるその闇を 誰にも知られたくないと思うと同時に 誰に話しても理解される類のものでは無いことも分かっていた。極めて抽象的なその闇と共生することを拒絶しながら 具体性のないものをどうにかすることが出来ないまま日を送った。

 

私の絵を見た加山先生は 「比類なき爽快さ 明るさ」と言う。前本も自分とは正反対だと言った。そうなのだ 私は明るく 爽快な質なのだ。絵を描けばそういった作品になる。

私は自分の中に在る闇を誰かに理解して欲しいとは思わなかった。それでも 明るく爽快なだけの絵を描き続けるのは釈然としなかった。この厄介な闇を何とかしなくてはと思うものの 如何とも難いがたいままに生きていた私は この時イサムノグチの黒御影からその答えを受け取った。

 

その彫刻は私の闇に呼応した。見事に共鳴し その闇が私に力を貸そうと言うのが聞こえた。黒御影とイサムノグチと私はこの時 この世ならぬ処に長い時間佇んだ。今迄敵のように扱ってきたものが 私を異なった処へ誘い しかも前に進む力を与えてくれようとは。それを受け入れて 楽になった。容認する事でこれ程心が溶けて広がるものか 私の中には力が漲り 隠蔽し 忌み嫌っていた深い闇が心をどっしりと支えてくれるのを実感した。以来 うかうかと爽快で明るい作品を描く気は起こらなかった。

勿論 明るく爽快な私の個性はそのままではあるがそれが軽々とせず どっしりとしたものとなった。確信を持って人生を歩める。その事が私にはこの上ない喜びである。

 

京都の美術館へイサムノグチの作品を観に行った時の満たされた一日。思いもかけない形で救われたことへの驚きと安堵。魔物が救い主になった。イサムノグチの持つ闇は私の闇と波形が同じなのか。真剣に闇と共に生き 妥協することなく自らを貫いた創造の主イサムノグチの才能と力は 私の人生を変えた。

 

 

 

 

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箱根空木が梅雨空に向って咲いた。これ程地味な花は無い。薄淡い花はひっそりと半日陰に咲く。斑の入った葉は控えめである。何とも古風な木の花だが その優しさが私は好きだ。無数の花はさわさわと風に吹かれ 薄桃色の声で話しかけてくる。

 

 

 

 

今年もバラの季節になった。箱根空木が散り始めるとバラが咲き始める。今年は梅雨に入った途端だった。バラにとってこれ程不幸な年は無い。しかも大変な降りであるから私は庭へ出られない。殆ど面倒を見てやれない。蕾は球状になったまま開花せずに落ちてしまう。何ともやり切れない年であった。その代わり バラは大きな木になった。

見る度に伸長した。野生味を帯びた木々を私は窓から眺めていた。

 

 

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例年に比べ花の数は大変少なかったが 私は自然に任せて見ようと思った。夏になれば

庭に出て バラ達にどうして欲しいか聞いてみよう。私はバラ達のして欲しい事を何でもしてやるつもりだ。何十年も付き合ってきた この愛しい者達を慈しむことは私の最上の喜びである。

 

 

 

 

 

 

                   💐












 

 

 

 

 

 

 

 

 

第五十章 「箱根空木と兎」2021・5

 


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                                       「箱根空木と兎」 

 

 

 

6月になった。2月の末に四十九章を書いたきり 3月 4月 5月が過ぎた。八ヶ岳に来て 電気の工事を頼んだ時 「ここは冬が八か月だからね」と言われた。全く実感が湧かなかった。今年初めて 本当に冬が八か月 春夏秋が残りの四か月をかろうじて分け合うのだと思った。寒い。

 

早春に咲くのは水仙である。まだ霜の降りる日もある頃に 庭で唯一春の兆しを告げる花を 私はどれほど慈しんできたことか。遅霜で花弁が傷まないうちにすべての花を切り 窓辺に飾る。

 

    

 

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3月の終わり 森の木々は仄暗く白い枝を寒風にさらし 名のみの春である事を物語る。

 

 

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        4月になると枯れ枝に少しの緑が見える。

 

 

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          次に咲くのは 花海棠と雪柳である。

 

 

 

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         空もだいぶ春めいて 柔らかな雲が浮かぶ。

 

 

 

 

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菫には亡くなった友人の面影がある。多摩美の入試が人物画であった為 私の練習台となって 幾度となく身じろぎもせず献身的にモデルを務めてくれた 心の綺麗なこの友は 若く美しいままこの世から居なくなった。美人でスタイルも良く 高校時代井の頭線の中でスカウトから貰ったモデルクラブの名刺は束になっていた。本人は 何で私なんかに声を掛けるのか分からないと全く興味を示さなかった。

老女となった今の私を見たら さぞや驚くだろう。二十台の私達は お揃いの口紅を付け 徹夜で縫ったミディ丈のワンピースを着て 次のスカートの生地を 下北沢から渋谷新宿と探し回った。妥協を許さなかった彼女がようやく見つけて 翌日には縫い上げてみせてくれた 菫色のスカート 菫色をこれ程に合う人を未だ知らない。私たちの事をおしゃれに憂き身をやつすだけのつまらない人間だと思っていた人も居ただろう。然し そうではない。私達は自らの美意識に忠実に生きて居たかった。

外見だけでは無い。例えば 得をしたいと思うことなどは美意識に反する。贅沢をすることも 何かをひけらかすことも同様である。私達はそういったことで意気投合した。こういった事を主眼に生きてゆけば 随分と損をしたと思う。それでも どうしても美意識を優先させる生き方しか出来ない種族なのである。散々な目にあいながら 文句ひとつ言わず いつも相手を支え 懸命に生きた長女気質のこの人が 何故あんなに早く神に召されたのか。 

テキスタイルデザイナーだった彼女の努力と才能は 今でも私の内に残り 生き続けている。自らにないものを持ち 教え影響を与えてくれる友人は尊い

 

 

 

 

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私の祖母も同じ様な人であった。私が生まれた頃 母はまだ仕事をしていた。女子医大の病理学教室で教鞭を取っていた母は 幼い私にとっては母という感じが無い。クレゾールの匂いと共に帰宅する母は きりりとした厳しい面差しで 直ぐに机に向かっていた。私の母は慈しみ深い 祖母であった。

父が帰宅する前の時間を 私は祖母と夕飯を食べ お風呂で遊んで祖母と一緒に寝た。布団の中で 祖母は毎日大人にするような話をした。

 

「今日 見たかい 大変な井戸端会議だったね」昼間散歩した西荻窪の駅裏で 大勢のおばさん達が 今で言う情報交換をしていた。皆 割烹着姿で藤の買い物かごには新聞紙にくるんだ色々な野菜が入っていた。口角泡を飛ばして我先に大声を出す主婦の群れに背を向け 祖母は俯いて 私をせかした。呼び止められたら一巻の終わりだと小さな声で言いながら逃げるように大通りに出た。              

 夜になって 布団に入ってからも「大きくなっても あんなことをしては絶対にいけないよ」と眠い私に 厳然たる態度で申し渡した。「みっともない」

 

事あるごとに祖母はそんなことばかりを私に言った。それは 祖母の美意識に基づいた見解であり 私は知らずのうちに祖母のひな型となっていた。亡くなった先の友人も

たった一人の親友も 結局のところ同じ様な美意識の持ち主である。

 

情報はある意味では大切なものではある。然し 私は情報という言葉を好きになれない

そういったことから無縁の生き方をしたかった。

 

日本画は 情報とかデータなどどいったもので描けるものではない。

現代は その様な浅はかな考えで描いた日本画ばかりであるのは なぜなのか。  

 

パソコンのように 一定の手順を踏めば 一定の結果が得られる こう言った事に慣れてきたせいかも知れない。データに従えば 必ず成功するといった考えは芸術には通用しない。

 

加山先生ぐらいになれば さらさらとどんどん描けるものと大概の人は思っている。

とんでもないことだ。先生は常にうまくいかなかったと言い続けた。どんな時にもである。どんなに高名な画家であれ一作ごとに 大変な苦労と闘いながらそれでも 筆を置いた時 どの作家でもこう言うだろう 「うまくいかなかった」 

 

半世紀以上 何千点もの作品を描いてきて 前本は納得のいく作品など一点たりとも無いのである。それが普通だ。芸術とは たった独りで まだ見ぬ苦難を乗り越えながらも道を開き 何とか自らの美意識を表現したいと願うことである。他から提供された情報やデータといったものに頼ろうとするその安易さは 美意識のない者のすることだ。上手くいくための手順に従い 一定の成果を上げることが出来ないから芸術は尊く 美しい。

 

 

 

 

 

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  春は進んでいるはずなのに 寒い。桜が咲き 花冷えの日が続く。

  山の頂きは 残雪で凍るようだ。4月になって 朝早く鶯の初鳴きを聞いた。      
     
 

 

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早春の森。鶯は朝から夕方まで鳴き続ける。私は耳元で鳴く鶯の姿を見たことがない。

 

 

 

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辺りは桃色に包まれ 春は日ごとに近づいているはずではあるが 花冷え 若葉寒 そしてそのまま梅雨寒となるのが小淵沢なのだ。

 

 

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   霧の深い日 それは神秘  夢の世界 五里霧中は五里夢中とも言える。

 

 

 

 

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          山吹が咲けば 本当の春である。

 

 

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5月21日に郭公がやってきた。この日は 富士山の中腹に残った雪形が 鳥の形になる 「農鳥」も現れた。これは 田に水を張り 苗を植える合図になる。

いよいよ初夏の兆しか。森は急速に緑の葉に覆われ 白い花の季節となった。もうすぐ庭の箱根空木も咲く。そしてバラの季節を迎える。

 

 

 

 

 

 

                 🐇 🐇

 

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

               

 

日本画の杜 第四十九章 「古樹桜花」 2021・2

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                                                                              前本利彦 「古樹桜花」  30号

 

 

新しい年を迎えた。一月も二月も私は相変らず忙しく ゆっくりと考えるいとまも無いままに過ごした。

 十二月は暖く 雪の無いお正月になるのかと思ったら 新しい年を迎える頃には雪が降り 氷点下になり 震えて暮らした。外には一歩も出られなかった。

この冬は木枯らしが吹く。連日連夜悲痛な声で森を駆け回る。何がそれ程悲しいのか。

 

お正月と言っても 私達はいつもと変わらない。門松は冥土の旅の一里塚である。めでたくもあり めでたくもなしとはよく言ったものだ。年とともにリアリティを増す言葉である。

 

 

 

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窓から見える白い森はまぶしくて 私は目を閉じる。遠くで鹿が啼く。前本が常日頃言う抑制の美とはこんな風景かも知れない。

抑制。現代では滅多に必要とされなくなった。芸術にとってこれ程重要な事は無い。

 日本画にとっては必須の条件であろう。前に押し出すことばかりを考えている現代。

 

表面事に終始する現代に このようなことばかり言っている私は もう古いのだ。年々歳々過去の人になってゆくお正月。

 



 

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日本画は抑制を大切にして来た。如何に深い内容を奥に包み隠すか。それは穢れない美そのものなのだ。

最近は 自分が雪を持ったクマザサの中の小さな草木の一つの様に感じる。辺鄙な山中で 自然ばかりを眺めて暮らしているとそんな気持ちになるものだ。

 

 

 

 

 

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都会から本当に遠く離れて 雪に降り込められ 一歩も外に出ない日が続くと 都会にいた頃の事などを思い返しては不思議な気持ちになる。都会で暮らしていた私は あれは本当に私だったのか

 

私は 東京の中でも武蔵野に近い西荻窪で生まれ育った。七十年ほど前 そこは竹藪と原っぱばかりの田舎であった。忘れな草とシロツメ草の原っぱで遊んだ。窓からは富士山が大きく見えた。夜が白むと 鳥たちがやかましいほど鳴いて目覚めた。

道路が舗装され 自動車がひっきりなしに通るようになって 私の持って生まれた性分のせいか こんなやかましい所からは何とかして離れたいと思っていた。家族の誰もが 便利で豊かな都会の生活を楽しくに送っているのに 私だけが そこからのがれる事を願っていた

 

 

 

 

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通っていた女学校は美しい藤棚があり 運動会の時分になると大きな金木犀にあふれるほど花が咲いた。オルガニストの練習するバッハがチャペルから聞こえてくる。

恵まれた環境 豊かな暮らし。 

それなのに 私だけが誰とも違うと感じずには居られなかった。やり切れない思いを抱えていた。今ならストレスフルな人生と呼ぶにふさわしいのかもしれない。しかし私達の時代にストレスという言葉は無い。何か意に染まないことがあっても 子供は大人の言うことを聞くものであり 我儘を言うものではない 我慢が足りない 忍耐しろと叱られながら育つのが子供であった。

 

群れからはぐれた鳥のような日々。絵描きが揮毫を頼まれて 「雲中一雁」と書くことがある。私も雲間に一人漂うはぐれた鳥だった。元来 絵を描く者はそういったものなのなのか。一人で 考え 一人で決める そういったことしか出来ない種類の人間なのか。

 

 

 

 

 

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冬景色の中を歩むようにして 右往左往しながら二十年近くが過ぎ 結局私は両親と訣別する覚悟で日本画の道に進んだ。祝福されることもなく 冷ややかな疎外感を感じながら摩美に通っていたある日 私の人生を決定づける出会いをした。

 

 

  

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横山操 入学当時の多摩美の教授である。新潟の医院の先代の医者と看護婦の間の不肖の子として生まれた横山は実の両親を知らない。日本画を志して川端龍子の塾で学んでいる二十歳の時に招集され 五年間戦地で戦い その後捕虜として五年間シベリアに抑留され炭鉱で石炭の採掘をした。三十歳で日本への戻るまでの十年間どれ程過酷な生活を強いられたか 私には想像出来ない。それでも「石炭を心を込めて掘った」と話していた。まさしくこれは横山操の真骨頂である。

 

私が多摩美に入った時 横山先生は上級生の受け持ちだった。加山先生とは好対照の男らしい骨格と 聡明で陰のある強面の 魅力的な先生であった。

 

夏の終わり 上野の美術館の玄関の前で偶然出会った私を 先生は少し驚きながらも満面に笑みを湛え 孫娘に語り掛けるようにこんな所へ一人で来たのかと言った。

 

美術学校の生徒が上野の美術館に1人で来るのは不思議なことではない。しかしそう言われても仕方のないほど私は幼かった。ここへ来るのさえ心配した父は 運転手付きの車で送迎してやると言って聞かなかった。白いレースのワンピースに大きな向日葵の造花をあしらった麦藁のバッグ 私はまるきりお嬢ちゃんなのだ。

 

先生と一緒に展覧会を観た。先生はどうして絵描きになろうと思ったのか 聞いてみたくなり あんまり上等な質問ではないと気後れしながら聞いた私に 先生は立ち止まり

 急に真顔になった。孫娘扱いされていた私は直立不動になった。辺りの空気が張りつめた。先生は片手をポケットに入れ 小さな石をつま先で蹴るようにして俯いた。こめかみに真面目と誠実と真剣と正直が浮かんだ。遠くに話しかけるように「何とかしなくてはいけないとね」 それは私を遠いところ 宇宙の底知れない空間に放り込むような言葉であった。

 

ご自分の人生を 敗戦国日本を そして日本画を 何とかしなくてはいけない その他諸々を何とかしなくてはいけない。

 

私は人生で初めて 大人から大人扱いされた。心底思っている真摯な 正直な気持ちを聞いた。

私も何とかしなくてはいけないのだ。

 

その後先生は 再び笑顔で気を付けて帰るように駅までの道順を丁寧に教えてくれた。運転手を待たせてあるなどとは恥ずかしくて言えなかった。。恐縮した。

私は申し訳なく 恥ずかしかった。それからの私は常に 何とかしなくてはならないと思いながら生きて来た。  

 

 

 

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横山先生はシベリアでの無理が祟り 右手が動かなくなり この作品は左手で描いた。

絶筆となったこの絵を見ると あの夏上野の美術館で偶然会った先生のあの横顔が浮かぶ。53歳で亡くなった先生の葬儀には 奥村土牛が列席した。黒紋付羽織袴の土牛は口を真一文字に閉じて 本当に立派だった。土牛は横山操を高く評価している。

当然のことだ。土牛も横山も 崇高な心を持った稀有な画家である。

 

 

 

 

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奥村土牛の 「聖牛」

ポリーニの初来日講演後 感想を聞かれた吉田秀和が 「これ以上何かお望みですか」

と答えた。土牛の作品全てに 私はそう言いたい。

 

       今年は丑年である。私は年女だ。

 

 

                                  前本ゆふ                               

 

 

 

                🐄